宮崎駿さんとドワンゴの一件から見えてくること -2
こういうことに気づける人は、いわゆる平均的なレベルよりも上にいる人です。(しかしながら、実際は私たち自身にレベルなんてものはないのですが)
このプレゼンに参加していたドワンゴの面々はたぶんこれを真剣に読んでいるあなたより、”ずっと良い暮らし” をしています。間違いなく。
けれども、本当の意識レベルは、あなたの方が上なのです。
神との対話にあるように、この世界は何もかもが反対にできています。
意識レベルが高い人はより物質的に貧しく生き、意識レベルが低い人は、物質的により豊かに生きる。
全てがそうなのでは必ずしもありませんが、デフォルトはこうなっているのです。
疑いなく、彼らは怒られてもなぜ自分たちの力作が評価されないのか?まったくわからないはずです。
むしろ、ダメな老害だ、ぐらいの意見もあるはずです。
ここが絶望的なところです。
彼が怒ろうがなにしようが、眠っている人は眠っていることに気づけないからです。
むしろ起きていると錯覚しているのです。
すさまじい世界です。
こんな世界を構築してしまった私は、確かにほんとうに愚か者だったのです。
以上のように、まず最初にわかることは、このように意識レベルの絶望的な差がある、ということ。そして、その催眠は怒ろうが何しようが、解く事ができない、ということについてです。
この一件は、まずこのようなことを教えてくれています。
いのちが不在のカオナシ
次にわかることは、彼らが作ったこのCGは、たぶん宮崎さんへのオマージュのようなものではないかと感じました。彼らは彼らなりに敬意を込めて作っているように感じます。このCGに出てくる這いつくばって進むゾンビのようなものは、カリオストロの城に出てくる特殊スパイのような衛兵、風の谷のナウシカのドロドロになった巨神兵や、ラピュタに出てくるロボット、もののけ姫にもあのようなものが出ていたと思いますし、千と千尋のカオナシもそうです。
宮崎さんが描き上げたこれらのキャラクターを、AIを使用したCGにしたらどうなるのか?といった彼らなりに考えて作った自信作のように感じました。
しかし、先ほど触れましたように、最も悲しい点は、彼らがこれらの作品をみて、心に刺さったのは、このようなキャラクターだった、というところです。
私がわかったことは、彼らはいわゆるオタクである、ということです。
一方、宮崎さんはオタクではありません。
確かにぱっと見はオタクに見えるかもしれません。
しかし、そうではありません。
私も人生でこのオタクという人々に何人も会いましたし、そもそも私の姉がオタクでした。彼らを観察していてわかることは、彼らはモノにしか興味を持てない、ということでした。
彼らは、いのちそのものに関心が持てません。
彼らのフォーカスは驚くほど狭く、”一般的な”私たちが当然だと思っていることすら、そのフォーカス内に入ってこないため、”一般的な”感覚(それが眠っていようが)からいっても、異常に感じられるのです。
彼らの目をみると、そこに何の反映もありません。
そこは非常に固く、固定化されていることを寒気がするほど感じます。
なるほど、宮崎さんは機械などをたくさん書いているので、いわゆるオタクに見えるかもしれませんが、そこにいのちをふきこんでいるのです。いえ、いのちの表現としてモノを描いているがゆえに、オタクとは決定的に異なるわけです。
一方、今回やってきた彼らドワンゴの面々は、いのちに関心が持てない人々、いわゆるオタクです。ですので、宮崎さんの作品をみても、いのちなしで見るため、そこから学ぶことはなく、ただモノのインパクトをCGに落としこんでみたため、宮崎さんの逆鱗に触れたわけです。
しかしながら、ええ、まさしく絶望的です。
それよりもむしろ、宮崎さんにしてみても、本当に絶望的な気分になったことでしょう。まさか自分の作品をみて、これが一番心にヒットした、というわけですから。
彼は怒っていましたが、それは彼らに向けた怒りではなく、むしろ自分自身に対して怒っていたわけです。
(つづく…)
【レベル】:ホワイトクラス