走り出したら、止められない

(前回のテキスト)
宮崎駿さんとドワンゴの一件から見えてくること -3

さて。
ドワンゴの面々が宮崎さんのところに、この案件をもっていく前に、もしかしたら、社内の打合せの最中に

「これはやばいんじゃないか?どうしてもジブリが提供している作品とミスマッチする気しかしないんですけど」

というような人がいたかしれません。あるいは、いたとしたらどうでしょう?
しかしながら、基本的にとりわけ社内で重点を置いてやっているプロジェクトを個人が止めることなどできないのです。

走り出したら、止められない。

これです。
たとえそれがどんなに狂っていても、一度スタートしてしまうと、その命を吹き込まれたものの寿命が尽きるまで、止めることが出来なくなってしまうのです。

環境問題にしてもこのAIというムーブメントにしても何にしてもそうです。
いったん走り始めてしまうと、もうそれを止めることなどできないのです。

これは、もしあなたが会社などで仕事をしている、あるいはしてきたのなら、よくわかるのではないでしょうか?

いったんプロジェクトがスタートし始めた後、「いや、これさ。やっぱりやる意味あるのかな?このままいっちゃうのは、まずいんじゃないかな?」

なんて言おうものなら、みんなからあの冷たい目線で見られることになります。

私には、これが間違ったエゴのすべてを象徴しているようにしか見えません。
間違ったエゴがいかに出現し、成長し、そして死んでいくか?
そのエッセンスのすべてをここに凝縮しているように思います。

では、いったん走り始めたものがどのように止まるかと言えば、徹底的に苦しみを味わった後、それが確かに私たちに害しかもたらなさかった、と気づく時です。

今回のドワンゴの面々は、宮崎さんによって徹底的に痛めつけられました。彼らは傷ついたでしょうが、先ほど書いたように、たぶん諦めないでしょう。まだ痛みが足りないはずです。

この典型的な例が、戦争です。
徹底的に殺し合って初めて、それが無駄でしかなかった、ということに気づくのです。死んで初めて、あるいはそれを当事者が痛みに初めて気づいて、それがまじでやばかった、ということに気づくまで、止める事ができないのです。

これが間違ったエゴです。
そして、もう少し正確に言うなら、間違ったエゴは気づきません。
とんでもない痛みを経験して、自分だと思っている自分が止まり、自分自身の聖なるところから光がやってきて、これが間違いだ、と気づくのです。

こうやってみれば、この世界がいかに危険なジャングルか、わかるのではないでしょうか?

いま流行りのAIや遺伝子組み換えについても同じです。

「やってみなけりゃ、わからないじゃないか!GO!!」

と突き進んで、あらゆる犠牲を払って、全部死んじゃって、初めて、「うーーん、だめだったな」と反省し、その後、”自分たち”の罪深さに嘆く、というわけです。このパターンが延々と続いているのです。
やっぱり、俺たち、罪深い存在なんだな。という結論に行き着きます。
まさしく、アンドレ・リノージュが言ったように、「地獄は繰り返すのだよ」というわけです。

ここに、何の救いもないことがおわかりになりますでしょうか?
彼らドワンゴの面々は、AIが世界に役立つと思っているから、やっています。
しかし、自分達が少なくとも尊敬して上のレベルにいると思う人のところにもっていったら(そうでなければ自分たちからもちかけないわけです)、強烈に叱られ、ここで本当に賢ければ、自分より上のレベルの人がNGを出しているんだから、こういうのはダメなんだ、と気づいて止めるのですが、賢くなく、完全に眠りこけていると、自分は悪くなくて、あいつはダメな奴だ、というおなじみのパターンを持ち出して、是が非でもこのプロジェクトを進めることになります。

そして、最終的にこの世界全体が決定的に傷ついたとき、彼らはなんとなく、「これはいけなかったんだな。反省」といって、そのプロジェクトを終了させ、そこに携わった人たちを罪人として扱うのです。そして、許しを求め、また同じ事を繰り返していくのです。延々と…。

あなたは、まさかここに救いがあるとでもお思いでしょうか?
もしそう思うのなら、あなたはこれからもずっとずっと違う形の同じ夢を見続ける事になります。

目覚めると、このような絵が見ようと思わなくても見えるようになり、気づきの光の中で世界を見渡すようになっていきます。
このサイトに訪れ、ひきつけられるように読んでしまうのなら、あなたはまさに目覚める事を、このように昇華していくことを運命づけられています。
そのために、あなたが思い出す事が出来るように、私はここでこうして語っています。

さて。
こういうわけで、いかに私が何にフォーカスするか?という所が問われることになるのです。それは本当にとんでもない責任です。
その責任を自分だと思っている自分のまま果たすことなどできません。

ですので、握りしめているその手を離して、いかに神に全託するか?
ということが、この世界の命運を握ることになるわけです。

今回までが、彼らドワンゴが一体何のシンボルなのか?彼らはどこで機能していて、何をあらわしているのかをみてきましたが、次からの二回は、宮崎さんにフォーカスをあててみたいと思います。

(つづく…)

(次のテキスト)
宮崎駿さんとドワンゴの一件から見えてくること -5

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