さて。

このタイトルを見て、即座にディフェンシブモードに入った方は、要注意です。w

というのは、冗談…、ではないんですが、今回はこのことについて触れてみたいと思います。

びっくりしたのですが、こういう方がかなり多いのです。

「私は、ニサルガダッタ・マハラジが好きなんですけど…」
「私は、大天使ミカエルが好きなんですけど…」
「私は、ラムサが好きなんですけど…」
「私は、ラマナ・マハルシが好きなんですけど…」
「私は、エイブラハムが好きなんですけど…」

この ”好き” という状態は気をつけなければなりません。

非常に罠にかかりやすい言葉であり、在り方です。

ここではっきりさせておかなければならないことは、好き、ということがあなた自身にとって、何を意味しているのか?ということなのです。

もし好きという単語が、どうしようもなく惹きつけられるだけで、実際は好き、という感覚ではない。

というのなら、正しい状態です。

しかし、~さんが好き、というような恋人のような感覚、アイドルのような感覚なら、決定的に間違っています。
間違っている、というのは、たとえばニサルガダッタが指し示している場所とは何の関係もない場所に向かっている、ということです。

あなたがアイドルを追いかけまわすような、宝塚のおっかけのような感覚でニサルガダッタをとらえていようがいまいが、もちろん、私には何の関係もありませんし、かまいません。

しかし、間違いなく実現しません。
彼が見出したことを、あなたが見出すことはありません。
彼のような成長を、あなたがすることはありません。

好きの反対は、嫌いです。
ただ、それだけのことを後者は言っているのです。

ニサルガダッタは好きだけど、クリシュナ・ムルティは嫌い。
ニサルガダッタは好きだけど、聖・ジャーメインは嫌い。

単にこういうレベルで、後者は機能します。
あれは好きだけど、これは嫌い。

単に好き/嫌いという相変わらずの二元性にどっぷりつかっているのです。
そして、どっぷりと浸かりすぎていて、自分だと思っている自分に浸かりすぎていて、もはや自分が本当に何をしているのかは気づきません。

スピリチュアルなものを探求している方であっても、このような方が大多数なのです。だから、誰も本当に飛躍することはないし、実現しないのは、こういう理由からなのです。

私自身、~が好きだ、というこのような感覚になったことがありません。
私にとっては、それはむしろ、”どうしようもない感覚” でした。

もう少し正確に言えば、ただ本当のことを知りたかっただけで、そこで現れるものに対する選り好みなんてありえませんでした。

もはや私にはどうすることもできませんでした。
トバイアスやニサルガダッタ、バーナデッド・ロバーツが好き、という感覚はまるでありませんでした。

単にどうしようもなく惹きつけられるだけで、私には抗う事が出来なかっただけです。
私にとって、霊性とはスピリチュアルとは好きとか嫌いといったもので片づけられるようなものではありませんでした。そういうのものを超えていたのです。

ですので、「~が好きなんですよ」という言葉は、私にはまるでわかりませんでした。

しかしながら、彼らをよくよく観察していると、ある境界線を超えてはいかないんだ、ということに気づいたのです。

彼らは、境界線からこちらへはあまり来たがらないのです。
彼らは、守られていると思っている領域の中で過ごしていたいらしいのです。

好きや嫌いといった態度を超えたところで生きることは、彼らにとっては恐らく過酷すぎることなのでしょう。

そして、問題なことはそう指摘されても、自分だと思っている自分に眠っているので、そのことに気づかないことなのです。
このように言われると、自分が何か悪いことをしたような錯覚にとらわれ、またしてもディフェンシブモードをとります。
なぜなら、自分だと思っている自分に眠っているから。
眠りを破られたくないから。
境界線の内側の領域を死守したいから。

先日、グループミーティングに参加されていた方が、このように仰っていました。

「今までは精神世界的なことが好きだっただけだったんだ、ってことが今更わかった」

こんな感じのことを仰っていました。
この言葉を聞いたとき、私はあぁ、と思ったのです。

このことに気づけること自体が、私にとっては祝福であり、神にとってもまたしかりなのです。

こういうことに気づけないまま死んでいく人がほとんど全てなのですから。

そして、このような気づきや理解が実現に向けての重要な布石となっていくのです。まさしく、必須科目をマスターしたわけです!

いいでしょうか。
好きなだけの人は、すぐに態度が急変します。
何かあると、すぐに嫌いになるだけなのです。

一方の振り子から反対方向に飛んでいくだけです。
そういう人生です。

このようなレベルは、決して超える領域にはいきません。

ですから、ニサルガダッタが好きとか、ラマナ・マハルシが好き、というのは、要注意なのです。

なぜなら、彼らはいかに超えて生きるかを示唆し、それを目的としているのに、そんな彼らが好き、というのは完全に彼らの想いを踏みにじっているからです。

私は、ニサルガダッタに会ったことも話したこともありません。
ありませんが、会ったことがなくてもわかることがあります。

それは、彼は何も好きになってもらうために話していたわけではない、ということです。
100%、彼は好んでもらうことに1ミリの興味も持っていません。

もし彼に誰かが、「あなたが語っている内容やあなたが好きなんですけど」なんて話しかけたら、彼は非情さを現わします。

なぜなら、彼はいわゆる人間の関係を超えているから。
もうそんなものに興味のかけらももっていないから。

もちろん、他の表現がなく”好き”という単語をしょうがなく選ぶ場合もあります。けれども、そこに込められているエネルギーは適切に表現しているのです。

いいでしょうか。
好き、という在り方はポジティブなようで、非常にやっかいなレベルです。
このレベルにいるのなら、進展は非常に遅いものになります。
一歩進んで、0.9歩戻るような具合です。
場合によっては、二歩戻る事だってあるかもしれません。

ですので、当人は非常にイライラします。
そのイライラの原因は、誰かにあるわけではなく、当人自身にあるのです。

覚えておかなければならないのは、好きというレベルは、個人のレベルです。ですので、すぐに変性してしまう、ということを。
好き/嫌いというダンスを無意味に踊り続ける結果になるだけだ、ということを。

好き/嫌い、という振り子から降りた時、その無意味なダンスを踊ることを止めたとき初めて、あなたに本当の可能性が展開されるのです。