なぜ、努力が必要なのか?
それを誰も問いません。
なぜ努力しなければいけないのか?
こんな簡単な疑問を誰も取り扱いません。
努力することを当然として生きています。
しかし、なぜ努力することが必要なのか?それを誰が言っているのか?
そのことに疑問を持たなければいけません。
「努力すれば、ああなれる」
「努力すれば、あれが持てる。これが持てる」
努力とは、そんな素晴らしいものだと、私たちは決めています。
努力とは、誰にでも使える素晴らしい道具なので、使うのが当然だと思っています。
ですので、誰かが何かで失敗したりすると、
「あいつは、努力が足りない」
などと決めつけたりします。
これは、いつでもどこでも行われています。
ええ、あなたもそうしたことがあるのではないでしょうか?
私はしたことがありますから、よくわかっています。
しかしながら、努力が足りないのであれば、手伝ってあげればいいのです。
あなたはそれが出来て、それがうまく出来ない人がいるのなら、手伝ってあげればいいのです。
たとえば、食べる者も住む家もない人があなたの前に突然現れたら、その人に自分の家をあげればいいのです。
なぜって?
自分は努力が出来て、その人は出来ないのですから。
あなたは、努力の仕方がわかっているのですから、再度努力して、家を買えばいいのです。
ええ、そうすると、100%
「とんでもない!なぜ、私がそんなことをしなければいけないんだ!あいつは、自分の義務も果たしてない。私がどれだけ苦労して、この家を手に入れたか、わかっているのか!?知りもしない、努力もせず、同情の余地もない奴のために、私がしてやることは、何もない」
と言って、扉をがしゃんと閉めてしまいます。
ここでのポイントは、努力というのは、誰も好き好んでいるわけではなく、むしろ、誰もがいやいやながら、努力に頭を下げて生きている、ということです。
もし、その家を上げてしまえば、また自分はあの嫌な思いをしながら生きていかなければいけない。そんなこと、絶対に嫌だ!!
ということなのです。
努力は、誰もが嫌います。
誰もが嫌っているのに、なぜそんな生き方をしなければいけないのか?
その理由を本気で探す人に、私は会ったことがありません。
大半は、愚痴や不平不満を言う人、非難する人だけでした。
誰もがうんざりし辟易している努力をもってして得たものに対する
執着はすさまじいものがあります。
たとえば、車を傷つけられた時、盗まれたとき、烈火のごとく、人は怒り狂います。
努力というのは、自分という意識を非常に強めるのです。
つまり、行為をしている自分、主体としての自分という意識を強烈に強めてしまい、完全に分離の幻想にはまり込んでしまうのです。
いいでしょうか。
なぜ私がこんな話をしているかといえば、これはいわゆる悟りや解脱についても、同様だからです。
(つづく…)
【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス