さて、自分自身に対する謙虚さというものが、どういうものかをさらに
見ていきましょう。

☆間接的な知識

それを理解する一つの手助けが、自分が何も知らない、ということを知ることになります。

いいでしょうか?
私たちは、自分が知っていると思っています。
けれども、これが根本的な間違いで、本当は何も知りません。

知っている、と思っているのは、間接的な知識であって、直接的な知識というものは、全くないからです。

間接的な知識、というのは、つまり誰かの借り物だということです。
親から教えられた事、学校で教わった事、経験でわかったこと、仕事を通して分かった事…。

このような知識は、全て間接的な知識です。

何度も言いますが、間接的な知識が不要なのではありません。
ただ、間接的な知識をいくら振り回しても、根本的には、あなたは何も知らない、ということなのです。

☆人は、努力して手に入れた物にしがみつく

私が経験した中で言える事は、知識を持っていれば持っているほど、人は傲慢になります。

なぜでしょうか?
なぜなら、その知識を苦労して、努力して手に入れたからです。
苦労して、努力して手に入れたものに、人はしがみつく傾向があることがわかりました。

もう一度、言います。

人は、苦労したり努力したりして手に入れたものに、しがみつくのです。
なぜ繰り返すのでしょうか?

☆冗談ではありませんでした

私にしてみれば、これはすぐに見れば、わかるものでした。
今まで、平凡な私がわかるのであるから、世の中全ての人は、こんなことは、とっくに気付いているのだと思っていたのです。

気付いていながら、冗談で演技をしているのだと思っていたのです。
ですから、ちょっと本気になれば、すぐにでもこれらがもたらす問題を解決できる、と思っていたのです。

しかしながら、後々わかったことは、人は全く気付いていない、という事でした。
一度死んだ後、あるいは目覚めが起こった後、私はまず、家族が眠っていることを見ました。事実、見たのです。それは、非常にショッキングな体験でした。
続いて、世の中の人もまた、眠りながら歩いている事を見たのです。

ただ、このことは、当時の私には、なかなか受け入れがたいことでした。
ですので、たぶん冗談というか、知っていながらわざと問題を解決しないんだという結論を出しました。

けれども、調べれば調べるほど、それは違うことがわかってきました。
経験を重ねていくうちに、どうやら人はほんとに気付いていない、という結論を出すほかありませんでした。

このことが受け入れられなかったのは、実際に会って話せば、人々は、はっきりと明瞭に話せるからです。
いろんな知識を持っていたりするのですが、しかしながら、ただそれだけでした。
それ以上の深さがまるでありません。

例えば、努力して手に入れたものへの執着に関して、それが何をもたらすのか?
に関しての知恵や生き様をまるでもっていませんでした。
これは、本当に驚くべき事で、全く受け入れられないことでした。

私が観察してわかったのは、既に講義でお話したように、自分を生きる、ということをないがしろにした結果だ、ということです。
自分がどう生きたいか?ということを最優先事項にせず、ただ「こうしろ」「ああしろ」という社会が要求する命令通りに生きてしまっている結果だ、ということでした。

☆分離をもたらす知識

さて。
話を元に戻すと、知識を持っていれば持っている分だけ、人は得意になります。

知識は、人の差を測る有効なものさしになるのです。
つまり、知識は分離を促すツールになってしまっているのです。
なぜでしょうか?
なぜなら、間違ったエゴは知識が大好きだからです。
知識を探求していけば、自分が存在している感覚がより強くなるからです。
安心するのです。間違ったエゴは、安心したいのです。

このように、社会では知識が重要視され、知識獲得への努力は大抵、奨励されるのです。
けれども、残念ながら、知っていることは、知らないのです。
突き詰めていけば、「全然、わからない」ということになるのです。

もし誰も彼もが、「知っているように見えるけどさ、ほんとは知らないんだよ」
なんて誰も彼もが笑いながら話せたら、
どんなに明るく、軽く、ほがらかな社会でしょうか!!
そして、そういう人は、明るくほがらかで、謙虚な人ではないでしょうか?

もしかしたら、あなたにとってはそうではないかもしれません。
けれども、私の経験では進歩した存在というものは、こういう存在であり、進歩した社会とは、こういう社会のことです。

そして、私たちは”残念ながら”、こういう社会に向かって今、進んでいるのです!


(つづく…)