多くの方と話していて、私がいつも感じることがあります。

たとえば、健康についての知識やメソッドを兼ね備えている人と話をする機会がありました。

その方は、体のシステムについてや食品について、とりわけ何が正しい食品で何が健康を脅かす食品かを熟知していました。さらに、生活をとりまく電気製品、電磁場などの危険性についての知識もたくさん持っている方でした。

今では、わけのわからない食事をとることで、多くの健康的な問題を生み出すようになってしまいました。

これだけの問題があっても、まだ大多数の人は、気にしません。
それよりも、よりおいしいものを、好きなだけ食べることに夢中です。

そういった意味では、この方は、非常に進歩している方でした。

病気が体から始まるのではなく、霊的な体から起こるのだとおっしゃっていました。

一見、物腰も非常に柔らかく、お話も知見に富んだ素晴らしいものでした。

ですが、その方は、執着していました。

健康に執着し、自分のたどってきた知識の道に執着し、自分のやり方を固持して離さないことが、容易にわかりました。

どんなに素晴らしい学問であれ、概念であれ、知識であれ、執着してしまうのであれば、本当の価値はないのです。

その方の顔には、あのお決まりの奴が覆っていました。覆っている、お決まりの奴は、非常に冷たく固くこわばっており、それを見るたび、いつもうんざりさせてくれます。

なにがうんざりさせるかといえば、それが高尚な概念や知識であっても、霊的なことやニューエイジなことであっても、いつもおきまりの奴、執着し、私のものだと主張し、決して離さないそれに既に完全に犯されているのことを見たとき、「ああ、やっぱりそうなんだ」という絶望的な感情になること、その方に出口が見えないからなのです。

これが、前回言及していたことです。(努力して手に入れたものは、誰も手放さない

スピリチュアルであれ、健康志向、ホリスティックな生き方をしていることであれ、宗教的な生き方をしているのであれ、そこには完全な線が引かれているのです。

知識や方法論を愛することは、全く問題なのではないのです。
問題は、それを手にした後の、”自分” なのです。

これが全ての問題なのです。

知識や方法論に自分を支えさせてしまって、最も重要なものを捨ててしまいました。
最も大事なものと、知識や方法論を交換してしまったのです。

それに自分を支えさせているから、いざそれの真偽を調べられたり、他について話されると、その支えが揺らぎ、結果、自分が揺らいでしまうのです。

よって、揺らいでしまえば、自分の存在証明がなりたたないわけですから、非常に冷静に、かつヒステリックに、お決まりの奴が騒ぎ立てる、というわけなのです。

私は、最初、完全に勘違いしていました。

目の曇りが落ち、目覚めが起こった時、ニューエイジなどに精通していたりする人は、全て、こういうふしだらな在り方をしていなく、とてつもなく進歩している方々だと信じ込んでいました。

ですが、いろいろな方に会えば会うほど、それはまったくそうではないことに圧倒され続けてきました。

よく、私の所には、このようなことを言う人、気にかけている人が来られます。

それは、「今やスピリチュアルは、世界に浸透し始めていますよね?」

ということを言う人が本当に多くいます。

私にとって、それはどうでもいいことです。

なぜなら、既に書いたように、自分に紐づくすべての物に執着している限り、スピリチュアルであろうがアドヴァイタであろうが、何の解決策にもならないからです。

私が観察し続けた限りで言えば、このことだけはいつも見落とされます。

最初に挙げた方も、もちろん平均的な人間から見れば、相当進んだ方です。

ですが、進んでいるだけなのです。
進むとか、後退するといったものを超えていないのです。

わかるのは、どんな知識や方法などを持っていても、一見、大切そうにしていても、実はまったくそのことに興味をもっていない、完全に自由で開かれた在り方があるのです。

そのような在り方の典型的な例が、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシといったマスターたちなのです。

あなたは、そのお決まりの奴と決別する覚悟はあるでしょうか?

私が関心を持つのは、そこだけです。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス