私たちが自由を見出したいなら、至高を見出し、目覚めた眠りの境地に入っていく事を望むのならば、人生に観照者が現れないといけません。
私が経験してきた限りで言えば、観照者が現れる事は必要条件です。
なぜなら、個人には、そもそもそれが出来ないからなのです。
個人の本質、性質といったものがわかれば、それは当然のことなのです。
グループミーティングやガイドでは、何度も何度も観照者について言及します。
確認のため、そしてそれが起こっていない方に、それが起こる可能性を植えている
わけです。
参加される方々の疑問は、「果たして、私の人生に観照者が現れたのだろうか?」
というものでしょう。
グループミーティングやガイドをやってきて、わかったことは、
確かに、観照者が現れていない方もいらっしゃるようです。
だから、それで落第。ということは、ありません。
その理由はちゃんとあって、その理由に気づいていないだけなのです。
また、観照者が現れているのに、気づいていない方もいらっしゃいます。
このような方もまた、始終、疑念にかられているようです。
それゆえに、グループミーティングやガイドに参加して、理解をはっきりさせようと
されていたりするのです。
あるいは、観照者が現れた事に完全に気づいておられる方もいます。
そういう方が話すとき、観照者のレベルで話すので、すぐにわかります。
ギブアップの会では、とにかく観照者の出現を重要なものの一つとしています。
では、観照者とは何でしょうか?
まず、観照者とは人格のようなものではない、ということです。
ですので、観照者が現れることが意味することは
「自分の意思が外れる状態」
なのです。
観照者が現れると、今まで自分だと思っていた自分が、”そこ”にあるように感じるのです。
まるで、外側で演技が自動的に起こっているように見えるのです。
そして、その自動的な演技を何の感情もなく、価値判断もなく、ただじっと見守っていることが起こっているのです。
ある意味、これは世界が止まる瞬間でもあります。
つまり、当然だと思っていた連続した人生の流れが、突如ストップしてしまうからです。
これを初体験すると、当人はとてつもなくびっくりします。
何の準備もしていませんから、何が起こったのか?とひどく狼狽するわけです。
さらに、何の予備知識もない場合は、ただただ呆然とするしかないわけです。
これが、観照者の出現です。
私が経験してきた限りで言えば、発見者には、これが起こらなければいけません。
では、なぜこれが起こらないといけないのか?
観照者をとりわけ重要視するのか?と言えば、
観照者が現れる事で、個人の実在性が、初めて疑われるからです。
観照者が現れると、自分だと思っていた自分の演技があちら側で起こっているのを観ます。
そして、再び自分だと思っていた自分、つまり個人にのっとられること、外れた自分の意思が接続され直すが起こります。
つまり、元の状態に戻り、止まっていた世界が動き出すのです。
しかしながら、経験した事が消え去る事はないので、当人はとんでもなくびっくりします。
そして、それが起こることによって
「自分だと思っていた自分がそこで自動的に動いている、ということを観ているのなら、
私は、一体何者なんだ?」
という聖なる疑問が発生するからです。
これが、言ってみれば、精霊の訪問です。
個人自体に、これを出来る能力はありません。
ニサルガダッタ・マハラジは、これを非常にうまくたとえています
「個人が観照者になることはありえない。それは冷たいロウソクが、自ら火をともすことができると言っているようなものだ」
と言及していたようです。あいかわらず、正確な文ではないかもしれませんが。
こういう理由から、このサイトをよくご覧になられている方やグループミーティングなどに参加されている方は、ニサルガダッタの本を探して、この文章を見つけて下さい。
とりわけ、観照者が人生に現れていない、と疑念に思っている方ほど、この宿題をしてください。
観照者が現れれば、自分だと思っている自分の実在性を疑うことが、自動的に起こるのです。
個人のままがんばって、努力して、この疑いを起こす事は出来ないのです。
なぜなら、またもやそれはサークルの中でのことだからです。
だからこそ
「私は、一体誰なんだ?何者なんだ?」
というあの全てを一変させてしまう疑問が、ここで初めて意味と力を持つのです。
これは、考える事ではありません。起こることなのです。
それまでいくらがんばって、「私は誰か?」と考えても力はないのです。
なぜなら、それは外側から強制させられているからです。
そして観照者が現れれば、その後、自分だと思っている自分、つまり個人という感覚を押し付けられているように感じつづけるでしょう。
だからこそ、この偽りの感覚に終止符を打ちたいと、真剣に望むようになるのです。
これが、至高、真我が実現するための本当のトリガーであり、プロセスの概観なのです。
それがなければ、ルーのないカレーのようなものなのです。
こういうわけで、観照者がどれだけ重要か?ということが、個人レベルでもおわかりいただけたかと思います。
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