(前回のテキストは、こちら

というわけで、
問題は、こういう人々は眠っているため、揚がっていきたい者達を理解出来ない、ということなのです。
表面的には認識出来ますが、気づくことはできないのです。

だからこそ、いわゆる発見者、探求者はこの世界の中で、鬼のような苦しみを通り抜けていかなければならないのですね。

彼らは、眠っている者達の理解は出来るのです。
でも、逆はないのです。
ここでは、この世界では相互理解は成り立ちません。

ですので、彼女のように正社員となって働くことに無性に拒絶感を感じるのです。つまり、彼女は彼らを理解出来ますが、彼らは彼女がなぜ自分たちのエリアで機能したがらないのかが、根本的にわからないのです。

だから、彼女はそんな環境の中に自分を置いたら、どんなことになるのか?
彼女は、直感的にそれがわかっているのです。
でも、逆はないのです。

このことを非常にわかりやすく描いているのが、かぐや姫の物語、竹取物語です。
再度、テキストを読んで、あの映画を観るなり、古文を読んでみて下さい。
お勧めは、映画のほうですが。

そうすれば、どうして自分がこんなに苦しい想いをしているのか?
はっきりとわかるから。

ですので、当時、彼女は会社の中で本当に悩んでいました。

しかし、先日のグループミーティングにおいて、彼女は、このように発言したのです。

「去年だか、一昨年だかに、あれほど悩んでいた事が、今では全くその悩みがない。あんなに悩んでいたのに。もういちいち反応しなくなっている」

と。

当時、彼女は、その悩みをどう処理したらいいのか?
本当に困っていました。
マジで困っていたのです。

しかし。
気づけば、いつの間にか、それらの悩みは去っていたのです。

彼女も言っていますが、それをどう処理したのか?
自分でさえも、知らないのです。

なぜか、”何もしていない” のに、自ら去って行ったのです。

だからこそ、彼女は、

当然、祈りも瞑想もワークも何もしませんでした(≧∀≦)

と書いているのです。

それらの問題を処理するために、祈ったり、瞑想したり、彼女は一切しなかったのです。

だからこそ、行為者はいない、と言われるのです。
これが、その最もな証拠です。

個人は、間違ったエゴは、自分でそれを処理しなければいけないと思っています。だから、悩むのですが、悩んでいるだけなのです。

気づけば、それらは去っていて、間違ったエゴそれに全く関与していないことに気づくわけです。

だとすると、”誰が”それらを処理したのでしょうか?
それらを問題視しているのは、自分なのですから、自分しかそれらについて知っている人はいないのです。

他に誰もいないのです。

でも、誰かが、何かが処理してくれているのです。

では、その誰か、何かとは何でしょうか?
そして、だとしたら、あなたは自分なのですから、自分とは一体誰なのでしょうか?
何のために、生きているのでしょうか?

ここで初めて、このような根本的な疑問、聖なる疑問が発生するのです。

おわかりでしょうか。

彼女は、自分自身でその体験をしたおかげで、より一層理解が深まったのです。

どんな悩みでも、向き合い方によってそれがどう処理されていくのか?
そして、だからこそ、何に頼るべきなのか?

これが、実例をもってわかる、ということです。
これが、体験を通してわかる、ということです。

また、ここで向き合い方と書いていますが、行為をしていないからと言って、完全に放置プレーでいいかと言われれば、実は違います。この点が、紛らわしいがゆえに、自分が行為者だと勘違いしてしまうのです。
間違ったエゴとしではなく、あなたがあなた自身として何に気づくべきなのか?
という向き合い方がここで求められてくるからです。
彼女は、今回の実例をもとに、そのコツのようなものがつかめたのではないかと思います。

だからこそ、私は、みなさんにこういう体験を積み重ねていって欲しいのです。

なぜなら、こういう体験こそ、私たちの光となるからです。
間違いなく、私たちの励みになります。

こういう実例を読むことで、自分自身が何を体験していて、何に気づかなければいけないのか?そして、自分自身がこれを読むことで、安心感が生まれるからです。これは、分離ではなく、一体性の体験です。

体験という言葉自体が、分離を暗示していますが、それでもこのような体験は、全体性の体験へととって変わる事ができ、共有化できるのです。

以上のように、今回ご紹介させいていただいた例では、私たちが気づかなければいけない点が豊富にあります。

彼女と会ってから4,5年が過ぎました。
失礼な言い方になってしまい、申し訳ないのですが、当時からこの方はこうではありませんでした。

初めて会った時、最初のご挨拶をする前、一瞬見て、すごく人間であることを確認しました。
たくさんの不満と怒りを抱えていらっしゃいました。
ご自身が人生の被害者、犠牲者でいらっしゃったのです。

ですが、一歩一歩、一段一段、着実にいわゆる進歩成長しておられ、その結果、このように確実に実を結んでいることがわかります。

たとえば、自分が人生の被害者ではなく、張本人だと気づくことがどれほど難しいか。どれほどの偉業なのか。まさしく奇跡といってもいいぐらいです。

なぜなら、ほとんど全ての人は、こういうことに気づかずに死んでいくからです。
私の身近な人で、こういうことに本当に気づいた人は、一人もいませんでした。一人も。こう言われれば、わかったつもりになりますが、気づくことはできないのです。

もしこういうことに気づけたのなら、世界は間違いなくこういうあり様をしていいないからなのです。100%。

この方のレポートは、私たちにとってのいわば指標です。
もしあなたがこういうことに気づいていないのなら、それは大急ぎで気づかなければいけないことを示しています。
そして、それはできないことではなく、この方は出来るんだ、可能なんだと示して下さいました。これこそ、私たちが求めていることではないでしょうか。
なんと励みになることでしょう!!

個人的な内容を載せてしまい、大変申し訳なかったのですが、掲載許可をいただき、これまた感謝です。

ありがとうございました。

(おわり)