この方の体験を通して、私たちが気づかなければいけないもう一つのポイントがあります。
それは何でしょうか?
そこで、一番最初にこの方がシェアしてくださったことを再度、読んでみて下さい。
直接理解という贈り物
この二つに共通していることは、一体何でしょうか?
そうですね。
それは、準備していない、ということです。
それは、突然に起こる、ということです。
この方は、ご自身で指摘されているように、知ろうとしてこの種の気づきに到達したのではありません。
何の前触れも意図もなく、見出したのです。
実在とは、神とはこのようなものです。
私はよく、瞑想や座禅などの修行について言及します。
このようなものは、本質的には必要ない、ということを私は言っています。
もちろん、それは何もそのようなものが価値がないからなのではありません。
間違って欲しくないのは、それを否定してはいない、ということです。
そのようなものは、ある一定段階まで必要なことは間違いありません。
けれども、ある一定段階まで、です。
そして、それらをすれば、確実に悟りや解脱が起こるわけではないのです。
なぜなら、瞑想しようとする”人” が問題の本当の原因だからです。
瞑想しよう、という意図がある時、それは必ず、そこに何かしらの結果を期待している人がいるのです。
ですので、瞑想する前と瞑想した後の人が同じなのです。
結局、そこに戻ってくるだけなのです。
結果、何が起こるかと言えば、さらに分離した感覚を助長しているに過ぎない、ということになるのです。
これが、私がわかったことでした。
瞑想は、起こすものではありません。
それは、起こるものなのです。
起こす、という時は、いつも汚れた自分がそこにいるのです。
その汚れた自分が、全ての問題を創り出している元凶だということが、あなたには認められるでしょうか?
こういうわけで、このようなことを実際に理解し、受け入れる事が出来るのなら、それ以上、瞑想などの修行に励む必要はありません。
そうではなく、私たちは瞑想しようとするとき、それが一番問題だ、ということがわかるのですから、それらを完全に諦めていく必要が出てくるのです。
もう一度、この方の例を見てみて下さい。
何もしようとていない、空白の時、それは自ずとやってくる、ということです。
それが自ずとやってくれば、全ては努力なく知る事になるのです。
私が皆さんになぜ、このようなことを話し続けるかと言えば、一度その味を味わってみてほしいからです。
努力なく実在がある、努力なくあらゆるものが完璧であると知ること。
このようなことが概念ではなく、直接的に知る事が出来たとき、あなたはやっと自分がどこに行こうとしていたのか、そこが間違っていた場所だと気づけるからです。
それが起こるまでは、もしかしたら懸命に瞑想をしたり、マントラを唱えたり、チャクラを回転させ続けるかもしれません。
でも、それらは違う、ということです。
何かに執着し続けている限り、それがたとえどんなに聖なる行為であろうとも、それらは実現するどころか、障害物になり続ける、ということです。
まずは、この方のように、自身でそれを体験し、その蜜を味わってください。
大丈夫。その蜜は、決してあなたを騙しはしないものです。
あなたは、まさしく毒を飲み続けていて、毒が蜜だと勘違いしているのです。
グループミーティングや個別ガイドをなぜしているのか?
それは、このような理由からなのです。
あなたが本当に純粋で真剣ならば、必ず分かるときがやってくるのです。
最後に、素晴らしい体験と気づきをシェアしてくださって、
本当にありがとうございました。