(前回の内容は、こちらをご覧ください)
この話は、第2期目のマスタークラス1-2の進行中に起こった出来事をレポートして下さいましたので、早速共有したいと思います。
…略
大きなものがドーンと降ってきて、飲み込むのにしばらく時間がかかっていたような感じです。(講座の最後にちーさんが言っていた、私たちのすぐ後ろにいるものに話しかけている…と言っていたところで、自分だと思っている自分がペラペラの紙みたいで真我に張り付いているだけのように感じで…これは何だ??どう処理をすればいい??というような感じになっていました。)
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大きなものがドーンと降ってきて、飲み込むのにしばらく時間がかかっていたような感じです。(講座の最後にちーさんが言っていた、私たちのすぐ後ろにいるものに話しかけている…と言っていたところで、自分だと思っている自分がペラペラの紙みたいで真我に張り付いているだけのように感じで…これは何だ??どう処理をすればいい??というような感じになっていました。)
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さて。
これだけ見ると、なんのこっちゃ?という感じになるかもしれませんが、わかる人は、わかるはずです。
この部分をもう少し補足すれば、この方がこのような体験をしたのは、クラスのほとんど終盤にさしかかってからでした。
1-2は、共有化の回です。
1-1で学んだこと(学ぶ、という単語は不適切な表現ですが)を各自が持ち帰り、一ヵ月後に再度集まり、どんな変化があったか?どんなことに気づいたか?あるいは、どんな疑問が生まれたのか?ということをシェアする場です。
そこで、この回の終盤になって、私たちは1-1の内容を更に深めていき、そもそも、私は誰なんだ?という所に入っていったところで、この体験が起こったんだと覚えています。(間違っていたらすいません)
当然のように、このテーマは常に決定的です。
間違ったエゴには、あまりに決定的過ぎる事実です。
ですので、この方は、この中で、突然として…
「大きなものがドーンと降ってきて、」
という事が起こったわけです。
実際、この方は、
「えっ…、ナニコレ?」
「どうすればいいんですか、これ?」
とたしか仰っていましたが、明らかに起こったわけです。
☆その体験の意味するところ
では、この方に、一体何が起こったというのでしょうか?この体験がいっているのは、つまり、観照者(※)が現れた、ということです。
そこで話されていたテーマは、間違ったエゴには、あまりにも辛い、本当すぎることでした。
ですので、その瞬間、この方に、止まることが起こったのです。
止まる事が起こったからこそ、観照者が現れたのです。
だからこそ、
「自分だと思っている自分がペラペラの紙みたいで真我に張り付いているだけのように感じで…これは何だ??」
という表現をされておられるのです。
これは、滅多に起こることでありません。
観照者が人生において現れる、ということは、まず起こらないのです。
最初、私は観照者が現れることは、別にとりたてて珍しい事ではないと思っていました。
ですが、それはそうではありませんでした。
どうやら、それは滅多に起こることではないようです。
いいでしょうか。
ここでのポイントの一つは、この方は、別に意図してそれを体験したわけではない、ということです。間違いなく、そう言えます。
もしそれが意図して出来る類の体験ならば、誰にでも簡単に”起こせる”ことになるからです。
なぜなら、クラスが終盤にさしかかったとき、私が持ち出したテーマは、第1段階としては、少々行き過ぎた内容だったからです。
その証拠に、第1期では、この内容については触れませんでした。
クラスでは、大まかなテーマについては決まっていますが、内容や方向性については、全てアドリブというか、あの存在の指示に任すがままにしているのです。
ですので、全く予定のないことを話し始めた時、この方に起こるべき事が起こったわけです。
ですので、そうであれば、私たちが大事に握って掴んで離さない自分の意志、自分の意図というものが、いかに役に立たないか?
それがおわかりになりますでしょうか?
それを認める事が出来ますでしょうか?
この方は、間違いなく、クラスに参加したら観照者が現れるようにしよう、といった目的、ゴール、意図は持っていなかったはずなのです。
でも、それが起こってしまったわけです。
だとすれば、私たちが持っていると思っている意図や意志は、どれだけ重要なのでしょうか?あるいは、それは実在なのでしょうか?それとも偽りなのでしょうか?
いいでしょうか?
これは、間違ったエゴが最も聞きたくない、認めたくないことです。
この数行前を読んでいて、気分が激しく揺れ動いたのであれば、間違いなく、あなたにもそれが起こることを示しています。
そして、同時に、あなたがいかに自分だと思っている自分に眠っているのかも。
この方が教えて下さっているもう一つのポイントは、何でしょうか?
それは、クラスの中では、私たちは瞑想やボディワークやマントラといったワークは、一切行っていない、ということなのです。
瞑想など一切しなくても、こういうことが実際に起こるわけです。
否、私が通り抜けてきた経験から言えることは、瞑想などをしているときは、このような体験は望むべくもないのです。
瞑想を否定しているわけではありません。
それは、あるレベルにおいてまでは有効です。
しかしながら、あるレベル以上に進むには、いわゆる瞑想は役に立たない、か、もしくはほとんど進歩していかないと、私には言えます。
この点については、機会があれば、もう少し掘り下げてご説明できれば、と思います。
☆この体験の意義 ~ニサルガダッタ・マハラジ曰く~
さて。では、この観照者が現れる意義は、一体、何なのでしょうか?
このことを非常にうまく喩えて教えてくれた人が、ニサルガダッタ・マハラジです。
彼は、このことを…
「ロウソクはそれ自体では輝かない」
という言い方で教えてくれています。
なんという表現でしょう!!!
これ以上、適切な表現はありません!!!
このことについては、既にテキストの中で説明しましたが、
☆ロウソクは、それ自体で輝けない
これは、ロウソクは、他の火種がなければ、決して火がつくことはないし、明かりを灯すこともできない、ということです。
マッチやライターといった火種があって初めて、ロウソクは機能するわけです。
つまり、個人、自分だと思っている自分は火がついていないロウソクを意味し、火種は、観照者、スピリットや精霊、真我、神(表現はなんだってかまいません)であるのです。
ですので、個人のままがんばろうが、それはロウソクが火種に頼らず頑張るようなものだ、というわけです。
なぜ、ニサルガダッタ・マハラジはこのような言い方をしたのでしょうか?
それは、それが起こらなければ、ずっと自分だと思っている自分のままで居続ける、ということを意味しているのです。
そして、それは、個人、自分だと思っている自分というロウソクに火がつくことで初めて、個人が個人の実在性を疑う事が出来るからです。
観照者が突然として現れると、びっくりします。
極端に言えば、連続性がそこで一時的に途切れるために、私が止まり、よって世界も止まります。そこで、初めて、自分が自分だと思っているものは、実はそうではない、ことに気づく事ができるのです。
ですので、この方は、
「これは何だ??どう処理をすればいい??というような感じになっていました。」
という状態になってしまったわけです。
これぐらいびっくりすることになるのですね。
これは、典型的な例です。
ですので、こういうことが起これば、自分とはそう思っている者ではない、ということに気づく事ができるのです。気づくでしょう。気づくはずなのですが。気づくかもしれない。気づくといいなー。
ともかく、人生に観照者が現れることで初めて、個人の実在性が疑われ、それが実在していないことに気づくことで、本当に実在している状態に戻ろうとし始めるのです。
ですので、私が言えるのは、ここからが本当のスタートである、ということです。こっから、本当の旅が始まるのです。
なぜなら、自分がそうだと認識し続けていた者にある意味、裏切られ続け、だからこそ、もう本当にそれを終わらすことに人生の全精力を傾けることになるからです。
誰でも、一度完全に騙されたなら、もう二度と騙されたくないと思うものです。
私たちは、まずその決定的な体験を通り抜けなければいけません。
この方がここで伝えていることの本質は、簡単に言えば、こういうことになります。
というわけで、今回も控えめに言っても凄すぎるお便りをご紹介させていただきました。
お忙しい中、時間を割いて、お便りをくださり、誠にありがとうございました!!
※これを観察者といっても別に差し支えはありません。明確に区分けしたくなりますが、それが現れるか、目覚め、思い出せば、言葉ではなくその存在でわかることになります。
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