さて、すっかり遅くなりましたが、引き続きこの物語について触れてみようと思います。

翁は竹から産まれた子を拾い、嫗とともに育てていたところ、竹からあふれ出る黄金や高貴な着物なども手にしました。

このことによって、彼は

「天が与えたこの姫を、天にふさわしいような育て方をしなさい」
という意図なのだと勘違いしたのです。

そのふさわしいとは、都に居を構え、大きな屋敷を建て、教養と気品にあふれるような育て方をする、ということが、彼にとっての”天にふさわしい”と考えたのです。

つまり、山間の田舎は、天にふさわしい場所ではない。姫がいる場所ではない、ということです。

ここでのポイントは、どうして間違ったエゴ、個人に天の意図を知る事ができるのか?ということです。

彼はその時に止まって、

「ちょっと待てよ、都で育てることが天の意図なら、なぜこの子は、こんな山間の竹林に現れたのか?都のどこかで現れればいいのではないか?」

あるいは

「ならば、今までの私は天の意図を知っていたのだろうか?それを完全に知って竹取として生きていたのだろうか?もし知らなかったとしたら、なぜ知らなかったのか?そして、なぜ今、それが急にわかったと言えるのだろう?」

あるいは

「姫は赤ん坊として竹から現れた。その後、金も現れた。これは天の思し召しなのは間違いない。しかし、なぜ私に推理させようとするのだろう?彼らにはっきりとした意図があるのなら、金とともに、手紙だって添えて出せるはずだ。こうしなさい、と。そうさせたいのなら、その方がずっとわかりやすく、結果も出やすい。なぜそのような推理ゲームをさせる必要があるのか?なぜ物ははっきりと出現させるのに、目的はあいまいにさせておくのか?」

彼はこのように疑問に思えませんでした。
それは、明らかです。

もし彼がこのように疑問に思ったのなら、何をするにせよ非常に慎重に事を進めていたでしょう。

しかし、竹の中に輝きあふれ出る金を見たとき、彼の目は、おきまりの奴にのっとられました。一瞬にして、彼は亡者になってしまったのです。

原文ではこのような描写はないようですが、この映画は非常に的確にそれを描写してくれています。

ですので、おきまりの奴にのっとられ、間違ったエゴが舞い上がってしまい、天の意図とは自分だと思っている自分の意図と同じだと錯覚し、嫗とかぐや姫は彼の生贄となったのです。

これこそ、いかに間違ったエゴが間違ったまま生きていき、よって苦しみと絶望の中で死んでいくのか、といったことを端的に語っています。

間違ったエゴは、天の意図を知る事が出来る、というわけです。
そして、それはいつも醜い欲望の偽装がなされ、その上で、「~に違いない。”きっと”そうなんだ」と確信に見せかけ、そこに推測をデコレーションして決定するのです。

ここに何の救いもありません。
間違ったエゴのまま生きる事に何の救いもないことをこの物語は、1000年前か1500年前からか知りませんが、すでに宣言しているのです。

そして驚くべき事に、現在、同じ事しか起きていないのです。
何も気づかれていないのです。
これが、私がこの世界が既に監獄であり、地獄だと指摘している理由なのです。

ここでの問いは、それでもあなたは間違ったエゴのまま生きていくことが望ましいと思うでしょうか?ということです。

(つづく…)

【レベル】:ホワイトクラス~クリアクラス