さて、名づけの宴が終わった後も、彼女の評判は増していくばかりでした。

その”評判”は、とうとう右大臣や皇子といった者達の耳に届くこととなり、彼らはこぞって、かぐや姫の”獲得”レースを始めたわけです。

映画において、彼らが彼女に興味をもった決定的なきっかけは、名付け親となった御室戸斎部の秋田の話でした。

彼女は、まさしく輝いている、と。
あれはまさに、この世の者ではない、と。

輝いている姫だから、かぐや姫。

そうですね。
ここでも、輝きです。

あるレベルに達している者、書物、それが何であれ、必ずそれらは輝きについて言及するのです。

人が軽く(light)なればなるほど、明るさ(light)を増していくのです。
そのような存在は、まさしくある種の輝きを放つのです。

人がもし啓発され、心が開き、目覚め始めれば、どんどんと軽くなっていきます。そして、それと同時に、輝きを放ち始めていくのです。

だからこそ、私はここでこのシリーズを行っているのです。

私がわかったことの一つは、いくらアドヴァイタや諸々の概念を”単に知っていた”ところで、それは概念の域を出ないのです。

人が書いたもの、伝えたものを”理論”として受け止めている人のなんと多いことか!?

そのような方々はまだ、頭だけで理論を組み立てているのです。
頭だけです。

ですので、肝心の智慧に恵まれていません。

そして、このような方々に共通しているのは、全く軽くないのです。
心を開かず、頭だけで無理やり押し通そうという傲慢さに浸っているため、全く軽くありません。

ですので、私が皆さんに求めることはまず、軽くなって輝きを放ち始めることなのです。

この兆候が強いのは、男性です。

男性は、どうしてもゴリゴリと力で押し進む傾向を持ってしまいます。
体がそうで、自分が体だと思っているので、どうしてもそうなります。
ただ、ここでの注意点は、体が女でも、中身が男という方も非常に多くいるのです。

ですから、体という面からだけでは、それを判断できません。

はっきりしているのは、ゴリゴリと押し通そうとする方は、より男性的なのです。

そして、これが何をもたらすかと言えば、バカみたいな生真面目さです。

生真面目になり過ぎ、フォーカスの中にいつの間にか入りこんで出られなくなり、軽さを忘れます。

自分を笑い飛ばすことすら、出来なくなります。

これは、まったくスピリチュアルなものと無関係と言えるでしょうか?

いえ、違います。
私が言えるのは、これこそがスピリチュアルの本質です。
至高の本質です。神の本質です。

なぜなら、軽さは明るさのことであり、輝きであり、それは光です。
光は、実在の本質、スピリット、つまり霊の本質であり、神の本質なのですから。

軽さ(light)は、明るさ(ligh)であり光です。
それは、まさしく存在の正しい状態(right)であり、私たちの権利そのもの(right)なのです。

探求の道を歩んでおられる多くの方は、このことがわかっているようで、まったく認識されておられないようです。その重要さに気づいている方は、実は非常に少ないのです。

しかしながら、これは実に初歩的、基礎的な理解だということも忘れないでください。私が言えることは、まずこれが身に付いていなければいけない、ということです。頭の理解ではなく。

もちろん、私が今ここで、こうしてお伝えしていますので、流れは変わります。そのようなことに気づき始める方が、これからもっと増えていきます。

さて。
ですので、かがやく姫、かぐや姫です。

輝きを放つ存在は、いかなるものなのか?
この映画では、それが非常によく描写されています。

このように輝きを放つ姫は、つまり、光です。

光だからこそ、人はそれを求めるのです。

右大臣や皇子たちは、だから闇なのです。
真っ暗な希望も光もない存在を代表しているのです。
帝も含め。翁も媼も。何もかも。

忘れてしまった、暗闇の中で蠢き光を求める、出口を求める者たちが、いかに光を求め、囲い、手元に置こうとするのか?
それをまざまざとこの物語は示しています。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス