この世界では、見せているだけということが非常に重要視されています。
そのものではなく、見せている、というのはまさしく、エゴの真骨頂です。
見せている、というのは、イメージでいいからです。
イメージが何より重要なのです。事実は、重要ではないのです。
繰り返しますが、この態度は生きていくためだけであれば、非常に有効に働きます。
しかしながら、私たちは、このような態度をもう卒業してしまったのです。
自分が他人よりいかに有利に人生を生きていくかではなく、本当に本当のことが知りたい状態になっているはずです。
ホワイトクラスの段階は、世界が提供してくれる以上のものを望み始める段階です。
では、見せかけの謙虚さではなく、自分自身に対して謙虚である、ということがどういうことかを見ていきましょう。
このこともまた、お手本に出逢えば、すぐにでも核心を理解できるのです。
ただ、私の人生では、謙虚さということに関しては、人間のお手本は現れませんでした。
誰も彼もが、重い荷物を引きずって歩いていました。
謙虚であることを教えてくれたのは、人間以外のものでした。
鳥やねこ、花や草木が教えてくれたのです。
☆風から学んだラムサ
確か、ラムサはこういう風に語っていました。「私は、風から学んだ。変性自我におかされているような人間からは、学ぶ事はなかった」
正確な文章ではありませんが、こういうことを言っていました。
これは、非常に共感できる理解です。
ただ、神、実在はどういう形ででも教師として現れることができるのです。
ときには、人間として。ときには、毛虫として。
前回にお話した、仕返しに全く興味を示さなかった彼は、まさしくその典型です。
彼は、教師としてグルとして、私の前に現れ、教えてくれました。
彼と連絡先を交換する必要すらなかったのです。
人間がよくやる継続的な関係というものは、必要ありませんでした。
その存在が、進歩にあたり、どういう形が必要なのかは、神は完全に理解しています。
それが人間である場合も、他のものである場合もあるのです。
ですので、私たちが気をつけなければいけないことがあるとしたら、決め付けてはいけない、ということです。
ラムサは、風から学びました。
あなたは、そうかもしれないし、そうではないかもしれないのです。
今、そこにあるものが完璧なのです。
あなたにとって、そこにあるもので間違って存在しているものは、何一つないのです。
けれども、あなたは間違ったエゴであるがために、あなたは自分自身が何者かをすっかり忘れてしまったために、その完璧さに気付けないのです。
できるならば、この全てに心を開いていてください。
できるならば、この全てを許してください。
それは、まさしく謙虚な在り方です。
(つづく…)
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