その方は、自分自身がどのレベルにいるのか?
まったくわかっていませんでした。
例えば、自分が5センチぐらいのレベルにいることに、全く気づいていなかったのです。むしろ、自分自身は相当ハイレベルな人間だと思い込んでいるようでした。確かに、人間としてはハイレベルですが、人間を、個人を超えていない、というところが一番の問題なのですね。
ですので、進歩の歩みが、全くもって遅かったのです。
けれども、結局、その方は話を進めていく内に、次第に状況を呑み込む事が出来たのです。
その方の顔は、最初、あの間違ったエゴが全面に出ていましたが、終わる頃には、顔にはわかってきたあの光が差し込んできているのが見えてきました。
なぜこうなったかたと言えば、その方は、実は非常に素直だったからなのです。(一目見た時、それも見えてはいました)その方は、自分自身がいかに間違っていたのか?それがわかると、すぐに心を開き、それを受け入れる事ができるだけの素直さを持っていたからに他なりません。
私自身も、こういう経験を通じて、やはり素直である事、心を開く事がいかにキーであるのか、それを再度確認することができたのです。
このような例をとおして、私たちがいかにわかっていると思っているだけで、実はわかっていないのか?そこには、おぞましいほどの自惚れや傲慢さが漂っていて、私たちは、これを何とか終わらすこと、終わらしたいと望む状態にならなければいけないことがわかります。
そして、そのような状態になれば、次第に身長(レベル)は伸びて、2メートルや3メートルでの景色を見れるようになるのです。
それがトータルな認識、全的な認識、合一や全託、目覚めた眠り(全て同じ意味です)を機能させていく道筋だということです。
☆どうすれば、このレベルをあげていくことができるか?
では、再度、どうすればこのレベルを、身長をたとえば5センチのところから、3メートルや4メートルというように伸ばしていく事が出来るのでしょうか?それには、何よりもまず、成長したい、進歩していきたい、という意欲があることです。それがなければ、本当に全く成長していかないのです。
これは、ある意味当たり前だ、と思う方もいるかもしれません。
がしかし、本当に進みたい、と意欲を持つ人は、実はあまりいません。
その先に待っていることが、偉大であればあるほど、人はしり込みするのです。
この世界に流れる人を観察し続け、何十年と生きているにも関わらず、1ミリも成長していない人は、ざらにいることがわかりました。
彼らは、完全に眠っていて、人生が何のためにあるのか?ということすら、疑問に思った事がありません。(こうして言われれば、”反応して”そんなことはない、と言い出すことも彼ら特有です)ただ、親や社会が言っている事を盲目的に受け入れて、ただ生まれて、結婚して、子供を産んで死んでいくのが人生だと思っているのです。
彼らは、いのちを、スピリットを、神を知りませんし、知りたいとも思っていません。望んでいないからです。その意欲がそもそもありません。
ですから、意欲は絶対必要条件なのです。
この意欲と同様、素直である事、心を開くこと、傲慢さよりも受け入れていこう、という態度を人生で重要視し、それをコツコツと実践していくことが出来る人は、自然と進歩していくものです。
こういう素養がある人は、何をしようが、進歩成長していきます。
瞑想が必要でも、座禅が必要なのでもありません。
メソッドや方法論が重要なのではないのです。
それらは、ほんのレシピの一つになるかならないかぐらいのものなのです。
それらは、結果として意味をもつもので、先に意味を持つものではないのです。
ここで、カチンときたり、何故かイライラしたり、反論したくなるような気分になるのなら、それはそういうレベルにいる、ということを”すでに”示しています。
この理解、すなわち、
「5センチの身長から見える景色と、2メートルの身長から見える景色には違いがあり、その身長になって初めて見える景色を見る事が重要なのである」
は、皆さんが今後、人生を歩まれていく中で腑に落ちていくことになります。
そして、何よりこの理解を忘れないでおくことによって、常に心を開き続けることが可能になり、その開いた扉には、当然のごとく、あの存在からの遣いがあらゆる方法で訪れる事になるのです。
以上、今回は、私たちが本来、はじめに理解し、覚えておきたいテーマについて触れてみました。
(おわり)
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