私の話は、基本的に大多数の人が抵抗感を感じるようです。
最初、私の輝きを直感的に感じはして好意的な感覚を持つのですが、私が核心について触れだすと、大抵、逃げ出していきます。
私は、それをよく知っています。
もちろん、私は悪意を持って語っているわけでも、伝えているわけでもありません。
ただ、私にとっての、私が経験してきた事実を話しているのですが、それはほとんどすべての人にとっては、受け入れられないものだ、ということがわかってきました。
では、私は大多数の人が受け入れられないところにいるのだから、素晴らしく優秀で抜け出た存在なのでしょうか?あるいは、その反対なのでしょうか?
当然、私には、そのような感覚がありません。
むしろ、私がすでにそうなっているものだとわかって以後は、全く逆の感覚になってしまっています。くどいようですが、誰かよりすごい存在、あるいはダメな存在なんて、実際はいないのです。それは、幻想の中、分離した幻想のゲームの中だけなのです。
実は、全てが一つであるだけで、その感覚のほうが、日常で支配的になっていかなければならないのです。ならない、というと強制的に聞こえすが、あなたが輝きの中で、その永遠と言う瞬間の中で、それを知れば、そのような逆転現象が”自然に”起こっていきます。
話を戻すと、大多数の人がなぜ逃げ出すかと言えば、距離を置くかと言えば、それは、何かを手に入れられる話ではないからです。
何かを手に入れられるよりも、いかに失っていくか?
いかに、持っていないのか?
という話だからです。
私が経験してきた限りで言えば、ニューエイジ、今ではスピリチュアルということになっていますが、そのようなものに興味がある人の大多数が、それらを通して、単に”気分がよくなりたいだけ” だということに気づきました。
確かに、心を開くことは、人生の中で大きな前進、飛躍的な前進です。
ただ、心を開くことは、非常に気分が良くなるのです。
よく、アメリカの人(だけかは知りませんが)などは、ワークショップなどで、「ヒャッホー」など、叫び声をあげていたりします。
なぜって、気分が良くなるから。突き抜けた感覚がするから。
これは確かに素晴らしいことなのですが、問題なのは、その感覚があまりに気分が良いため、その感覚が目的化してしまう、ということです。
そうなると、どういうことが起こるかと言えば、その感覚を得れるかどうかが、基準にすり替わる、ということが起こります。
そしていつの間にか、その気分の良さが、単に快楽に落っこちてしまい、またもや騙され続ける、というプロセスを歩み続けることになります。
単に、気分が良くなりたいだけなのです。
それは、単にドラッグと一緒です。
そうなったら、もう何の価値もないのです。
楽しいため、面白いため、すなわち興奮したいためだけにスピリチュアルなものに参加するのなら、サッカーの試合を観戦していたほうが、私にしてみれば、よっぽど健康的です。
なぜなら、スピリチュアル的なドラッグは、逆に分離を促進するからです。
こういうわけで、私の話は、好まれません。
気分が良くなること、突き抜けた感覚を欲するためだけに生きている人は、私の話が受け入れられないでしょう。
そういうと、反対方向に働きだして、対決、ライバルと言うおなじみの力学に支配されている人が頑張って現れたりします。私は、これを何度も何度も経験してきました。
ですので、ギーターの中でも、あらゆるマスターの話の中でも、本当に進める人は、全くいない、と言われるのです。
なぜなら、人はただ興奮したいだけ、気分が良くなりたいだけだからです。
それは、自由とは全く正反対の場所にあるものです。
【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス