先日、マスタークラス第1段階 1-2を行いました。
今回の1-2は、1-1で理解した内容を1ヶ月間かけて各自が落としこんでいったことを共有化することを目的としていました。
1-1では、進めるに従い、雰囲気が段々とクリアになっていきました。
で、今回の1-2では、その雰囲気から始められる、かと思いきや。
いきなり、どんよりムードからスタートする事になりました。
こういう雰囲気、空気感というのは、すぐにわかります。
この空気感、雰囲気を作り出しているのは、各々の存在状態によってきます。
今回は、1-1に参加された方だけではなく、覚醒シリーズやグループミーティングなどに参加された方も来られていました。
クラスの序盤(というかほぼ全般)がどんよりしてしまったのは、覚醒シリーズなどに参加して、久方ぶりに参加してみたものの、あまりに久しぶりすぎて、覚えていなければいけないことをすっかり忘れ、いつもの日常に埋没してしまっていたがゆえに、起こったのだと、すぐにわかりました。
これは、私にとっては、ある程度わかってはいたものの、やはりびっくりすることでした。「あぁ、そういうことなのか」
「元に戻ってしまうとは、こういうことなのか」
クラスを進めていて、何度もそう感じました。
ですので、やはり重要な事は、いくらクラスなどに参加しようとも、届かなければ、やはりすぐに元のレベルに戻ってしまう、ということです。
ある一線を超えること。
皆さんに最初に求められることは、それです。
ある一線を超えられれば、日常に戻っても、叡智は忘れ去られることなく、逆に、あなたの中で輝きを増していくのです。
では、ある一線とは何かと言われれば、それは決定的に思い出すこと、目が覚める、という体験をすることです。
「理屈では、確かにそうだと ”思う” 」
「論理的に考えれば、それは確かにそうだと ”思う” 」
こういう状態は、間違いなく頭だけしか開いていません。
し、頭しか頼っていません。
ですので、頭は落ち着きがないため、すぐに新しいデータ(過去)を欲し、アクセスしない領域に、それを放り込んでしまいます。
なので、すぐに元のレベルに戻ってしまうのです。
私たちが体験しなければいけないことは、そうではなく、あぁー。
という瞬間なのです。
理屈抜きで、理屈なんかに頼る必要もなく、直接わかることです。
そうなった時、それが本当だとすぐにわかるからです。
さて。
では、ある一線を超える、ということですが、その一線をどうすれば超えられるのでしょうか?
言い換えれば、いかに目覚めることを起こせるのか?
ということになります。
最初に言える事は、目覚めは、起こせるような類のものではありません。
起こせるのなら、誰でも起こせるはずだからです。
そうではなく、それは、起こることなのです。
起こる事を、許す、ことなのです。
起こる、ということを、認め、受け入れて、許すことで、その可能性があなたにどんどんとやってくるようになるのです。
これがプロセスです。
このことを、たぶん誰も気づいていないんだと思うのです。
言われれば、わかるのです。
でも、気づいてはいません。
わかる、ということと、気づく、ということはイコールだけど、イコールではありません。
こうして見ると、それは非常に簡単なことです。
神は、極めて簡単です。
難しくするのは、常に、間違ったエゴです。
では、簡単に言えば、許せていないから、それは起こらないのです。
では、なぜ許せないのか?
そこが、問題です。
今回も、クラスの中で、思い出せていない人、目覚めることが出来ずにいる人が、今、どういう状態なのかがすぐに察知できました。
「あー、こりゃ全然許してないな」
でも、本人にしてみたら、何がどう許せてないのか?
全然、気づいていないのです。
ここが、導き手が超絶に苦労するところの一つです。
本人に、いかに気づかせるか?
いにしえから現れ続けている導き手は、常にこのハードルに直面させられるわけですが、解決策は常に一つです。
どの導き手も、同じ解決策を採用します。
導き手は、そのためにあらゆる経験を自分に与えていくのです。
そして、その対応策について熟達していくことになります。
というわけで、なぜ許せないのか?
その答えは、すでにテキストでもクラスの中でも与えました。
それは、素直である、ということ。
いかに心を開けるか、ということ。
これが、答えです。
シンプルすぎますが、答えは、常にシンプルです。
なぜなら、神はシンプルだからです。
複雑さを好むのは、いつだって間違ったエゴです。
さて。
今回は、思い出した方々も参加して下さっていました。
これは、滅多にある事ではありません。
今回は、第1期目と定義付けていますので、第2期目も行う予定です。
その際、この方々はもう参加する必要もありませんので、今回初めて参加された方は、そういう方々と同席できて、途方もなくラッキーだった、と言えます。
そのおかげで、他の方々は、何がどう違うのか?
そのことに、何かヒントを得られたかもしれません。
というか、そうであって欲しいなー、と思うのですが。
とはいえ、自分自身がいかにラッキーなのかは、今は全くわからないでしょう。
なぜなら、巻きこまれている個人になりきっているからです。
その視点では、この大きな絵、グランドピクチャーは決して観ることはできません。
恩恵は、間違ったエゴにとっては知覚できなければ、理解も出来ないのです。
もっともっと後になって、わかる人には、見えて、わかるようになります。
もし同じタイミングでグループミーティングなどに参加し、月日が経って、ある人は、目覚めることになり、他の人は、未だそうではない場合、何がポイントなのか?
そのことに、ぜひとも気づいてほしいと思います。
それは、人としての優劣には関係ありません。
努力したか/しないか?ということに、あまり関係ないのです。
ただ、心を開けたか?
素直になれたか?
という、ただそれだけのことなのです。
このことは、今回のクラスの中で、散々説明させていただきました。
本当に、くどいぐらいに。
でも、これぐらいくどくいわなければいけません。
なぜなら、間違ったエゴは、これが嫌いだからです。
というわけで、今回の1-2は、1-1の共有化ということで、非常に実のあるクラスとなりました。(だといいんですが)
1-1で理解した事を、1ヵ月落としこんでいく。
そして、1-2でみんなで共有化していく。
こういう地道な作業を、これからもやっていこうかな、と思う次第であります。
今回のクラスは、どんよりムードに支配されていましたが、最後の方には、ようやく明るい兆しが見えたので、本当に良かったです。
また、初めから最後まで、明るく楽しく、笑いながら進められたことも良かったです。暗くなりそうなとき、明るい話でつないで下さった参加者の方には、お礼のいいようもありません。
私たちが、あの存在、神、実在、一なるもの、サムシンググレート、名称はなんでもいいですが、この普遍の存在のもとに相集うとき、それを中心に置くだけで、台風だろうとなんだろうと、私たちには決して影響を与えることは出来ないのです。
その証明を、この1-2で出来た事は本当に良かったです!!
そのデモンストレーションが出来て、何気にホッとしています。w
神と繋がりを確立し、全託すること。その結果、何が起きるかについて、私は台風がもたらす心配や恐れとは無縁の状態を確立していましたが、それでも、結果を見た後は、やっぱりホッとしたと同時に、信念以上のノウイングネスの重要性を再確認しました。w(こういう風にして成長していきます)
参加された皆さんは、この経験を共有できてラッキーです。
なんつってw
神を使うとは、合一するとは、全託するとはどういうことなのか?
そういうことに、気づけた方がいらっしゃれば、幸いです!!!
(これは、マスタークラスのもっと後の段階で詳しく触れていきます)
ありがとうございました!!!