なぜなら、この映画もまた、非常に重要なレベルを持っているからです。
この映画を観ると、あの感覚、あの知っている状態、ノウイングネスがそこにちゃんと内蔵されていることがわかります。
ですので、参加されている方々に、「ぜひ観てみてください。
きっと、あなたの役に立つから」ということで、お勧めさせていただきました。
で、グループミーティングが終了した後、ある方からメールがありました。
その方は、すぐにこの映画を観て、実にびっくりしたそうです。
おそらく、「なんじゃ、こりゃーー!」って感じだったのでしょう。
もしかしたら、それ以上かもしれません。
そうです。
そして、私はそのメールを読んですぐに、その方が大事なものをつかんだことがわかりました。
これは、あるレベルに達していれば、そこにあるものを確実に見て取れる、というはっきりとした証拠です。これは分析ではありません。評論ではありません。分析や評論というのは、個人のためのもの、エゴのためのものです。それは、さっきの話なのです。
そこにある贈り物は、分析していたら、頭に頼っていたら絶対に受け取ることは出来ないのです。理性や知性といったものに頼っている限り、絶対に発見できません。
あのおきまりの奴の分厚くブヨブヨしたヴェールがある限り、このことは決してわかりません。ですので、瞬間的にそれがわかった、ということは、もう既にあのとんでもないヴェールが巻き上げられていることを、個人としてのレベル、エゴとしてのレベルを超越していることを暗示しているのですね。
メールをくださった方は、つまりそういうところにいる、ということです。
また、グループミーティングに参加した方で、このような理解を得られないからと言って、残念がらないでほしいと思います。
それには、ちゃんとした理由があるだけなのです。
その理由がわかっていれば、残念に思わないはずだからです。
このことについては、次回のグループミーティングで取り上げたいと思います。
「こうかなー」
「あーかなー」
と悩んでいる時は、頭に入っている時です。
それは、推理です。データに頼っています。
データはつまり、過去のことです。
知性や理性に入り込んでいる時です。
過去とは、実在しない幻想なのですから。
そこはこの世界でうまくやっていくには、生存のためだけに、体を護るためだけに生きるには、非常に役立ちますが、自由を再び手に入れるには、この世界を置き去りにし、自分の人生という物語から立ち去るには、役に立たないどころか、足しかひっぱりません。むしろ、巨大な障害にしかならないのです。
このかぐや姫の物語、という映画は、その内容だけではなく、つまりこのようなことまで気づかせる力を持っている、ということです。
(つづく…)
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