☆知識という罠

この知識という落とし穴には大抵、誰もが落っこちます。
私自身の経験で言えば、目覚めが起こった後にすら、この罠にひっかかりました。

自分自身への目覚めがやって来て、私であったものが死にました。
その後、スピリチュアルというものがあることを知り、調べていくと、そこには沢山の魅力的な概念があったのです。

シリウスや地球の過去の歴史、地球を見守ってくれている存在たち、ヨガ、マントラ、禅、チャネリング、現実を創造する方法、瞑想、各次元について、いろいろな超能力、アセンションやいろいろなマスター、ヒーリングテクニック、幽体離脱などなど。

本当に魅力的なものがありました。
これらを探求してみたい衝動に駆られ、私はナチュラルスピリットという会社で働くことにしました。

☆知識を持つことの悪循環

そこで働き、調べた結果、これらが助けとなるよりむしろ、足かせにしかならないことに気付きました。
誰も彼も(私自身も含め)が、自分が所属している所、何を信じているかに執着し、そこから抜け出せないでいるのを見ました。

シリウスや他の進歩した星について、沢山の知識を持っているかもしれません。
地球の歴史、ピラミッドや地球の内部についての知識をもっているかもしれません。
しかしながら、これらの知識を豊富に持っていればいるほど、瞑想などを通して、沢山の経験をすればするほど、実は分離を促しているのです。

どのように分離を促すかといえば、

「私はこれだけの知識を持っている、あなたはどうですか?」

「私は苦労してこれだけの努力をし、瞑想についてこれだけの知識を持っています。あなたはどうですか?あ~、そのやり方ですね。私は、知っています。」

こういう風にして、優劣や差異、分離というモンスターを生み出します。
こういう方にもし、

「あなたが知っている事は、大したことではないですよね?」

と問いかけると、大抵不機嫌になります。

なぜでしょうか?
なぜなら、執着しているからです。
そこで、”本当に”一緒に笑い飛ばせる方であれば、その人は”知っています”。

☆ジョークでしかない

こういうわけで、スピリチュアルであろうと、科学であろうと、サッカーであろうと、ビジネスであろうと、何であろうと変りはありません。

誰も彼もが、自分というもの、自分と紐づくものをバカバカしいほど懸命に守り、固執しているのです。
私はこの人生で、自分というものを全く大切にしない人に出逢った事がありません。

どうして存在してもいないものに固執する必要があるのでしょうか?
否、存在していないが故に、固執する。というのが正確です。

繰り返しますが、知識を得ようとすること、知識を持っていることが問題なのではありません。
知識を得た後、必ずと言っていいほど、得たその自分に固執するのが最悪な結果なのです。
問題なのは、それが欲望であった場合、欲望ゆえに、辿り着く場所は、束縛だという事です。
もしかしたら、その人は自由を求めて知識を採集していたのかもしれません、しかしながら、気付いてみると、自由、解放を求めていたはずが、より一層頑固な
牢獄に入ってしまっていたのです。これは、残酷なジョークです。

☆びっくりする

いいでしょうか?
あなたは、何も知りません。
どうしてそうなったのか?なぜ、そうなのか?
それらを突き詰めても、結局は推測の域を出ません。

けれども、あなたは、推測ではなく、事実です。
そこを忘れないで下さい。

知らないのに、あなたはそれを知っているのです。
このことに驚けるようになってくれば、しめたものです。
この状態が常態となっているならば、その方は、まさしく謙虚さの鏡のような存在です。驚けるのは、知らないし、わからなければ出来ないのです。
予測なく、期待がないからこそ、びっくりするのです。
びっくりするからこそ、私たちは自分の本性に気付けるのです。

まずは知らない事を知りながら、人生を生きていってください。
それは、知識をバカにする事ではなく、知識を受け入れていき、学んでいきながら、自分が幻想の中での、ある役を果たしているだけである事を受け入れることです。
そういう謙虚な在り方を実践し続けていけば、やがて機が熟し、果実は落ちるのです。

以上で、第5回目の講義を終わります。