さて。

このように言われていたり、信じられていることは、もしかしたら、あなたもご存知かもしれません。そして、たぶん、あなたはそのように思っているのだと思います。ですので、これが間違っている、と言われれば、あなたはなかなか受け入れる事は出来ないでしょう。

けれども、私は気にせず、続けていこうと思います。

・体が食べ物で出来ている、という理由

さて。

体は、あなたが普段食べているもので出来ている、という理解は、確かに間違っていません。

ここで言っている事は、病気になるのは、あなたが普段何気なく口に放り込んでいるものによって起こるのだから、食べ物に無関心にならず、もっと意識して食べ物を摂取しなさい。

ということを言っているのだと思います。

確かに、それはあるレベルにおいてはその通りです。

例えば、この社会では、人口甘味料やら、わけのわからない食品添加物が溢れかえっていて、すでにそれが普通となってしまっています。
食品に何か別の物を加えることは、ごく当たり前で、加える事は価値を上げそうですが加えれば加えるほど安くなり、今では、無添加のもののほうが価値があり、値段が高い、という全然矛盾していることが起こっています。これは、確かに進歩した存在からは、まったく理解が出来ません。

当初は、誰にでも行き渡るようにと懸命に取り組んだのでしょうが、間違ったエゴなので、すぐに道を間違えて、苦しみに、死に向かって走り出してしまいます。
それが、間違ったエゴです。

そして、私たちは眠っているので、このことを指摘されてもわかりますが、気づきません。
唯一、気づくのは、私たちが完膚なきまでに苦しんで死ぬときです。
ええ、それでは遅すぎますね。

このような事情から、もっと食べるものに気を使うよう、助言しているわけです。

私たちがもっと体が負担とせず、体のためになるような食べ物を食べることは、自然なことです。

たとえば、ランチでつけ麺など重いラーメンを食べた後、おなかを壊した事がある人は、多いのではないでしょうか?
それは、単に体が処理できないほどのものを食べていること、体がすぐさま投げ捨てたくなるようなものを体に放り込んでいる、ということを意味しないでしょうか?

普通に考えれば、それが体にとっていいことなのか?すぐにわかります。
体が支障をきたして困るのは、結局は自分です。
つまり、ここで行っている事は、わざわざ自分を痛めつけている、という見るに堪えない光景なのではないでしょうか。

そうであれば、何を食べるべきなのか?
ということに気を配るのは、確かに当たり前の事なのです。

体に良い物を食べていれば、体はそれらの豊富な栄養を受け取って、快活さを維持してくれるでしょう。あるレベルまでは。

ただ、だからといって、体が食べ物で出来ているか?といえば、それは違います。

・聖者でさえ、そのように言う理由

このようなことはあちこちで言われています。
確か、ニサルガダッタ・マハラジかラマナ・マハルシか、あるいは誰か忘れてしまいましたが、そういう人もこのようなことを言っていた覚えがあります。

これを読んだ時、確かに最初はなるほど!と思いました。
けれど、わかればわかるほど、そのことに違和感を覚え、ついに私であるものを直接知った後では、それは違うな、と生意気にも私はそう”知っていました”。

「体は、あなたが食べた物でできている」

一見、すごく智恵のある理解です。

ですが、それは、そうではありません。
私が理解したところによれば、それは違います。

しかしながら、たとえばこれがもしニサルガダッタが言ったとしたら、それは本当の意味でいったのではないでしょう。

というのは、これは誰かが彼に質問して、その答えとしてこのようにアドバイスしたものでした。

ですので、ここでは、どうしてもその質問者のレベルが考慮される必要があるのです。その質問した人にとって、もっとも役立つ理解がそれであるがゆえに、ニサルガダッタか誰かは忘れましたが、このようなアドバイスをしたのです。

このことは、ラメッシ・バルセカールが『バガヴァッド・ギーター』におけるクリシュナを例にしてわかりやすく指摘してくれています。

つまり、質問者のレベルに応じて答えを変えていく必要があるのです。
これは、私もよくわかります。これまでたくさんの人に会ってきましたが、自動的にその人のレベルに応じて話していることが起こります。

たとえば、ここでは、健康について質問した人には、肉体は食べ物で出来ているのだから、健康に良い食べ物を食べれば元気になるよ、という理解が最適だった、というわけです。
これ以上の、つまり本当の理解を与えても、今の彼には何の役にも立たないどころか、今の健康状態を尚一層悪くすることにつながることだって十分ありえるのです。

ですが、問題は、ここではその人にとっては、そのような理解が役に立っただけで、本当の理解ではない、ということが共有されていないことです。

確かに、体は、私が食べた物で出来ている、という理解は、平均的なレベルよりは高い理解です。平均レベルでは、食べる質には全然気を配っていませんから。

ただ、このような理解は、常に誰か有名な人、偉いと言われている人、そのような権威ある書物がそう言っているから、そうなんだし、経験上、それで結果も出ているから、間違いがない、という理解が共有されすぎていること、信じられすぎている事でそれ以上の理解に繋がっていない、ということです。

これは、このように信じ込んでいる人には、受け入れがたい話です。
私の話は、大抵、間違ったエゴの反感を買います。

なぜなら、間違ったエゴは居心地のいい椅子からは離れたくないからです。
問題なのは、その居心地のいい椅子がいつまでも居心地がいいとは保証されないどころか、必ず不快極まりない椅子にいつの間にかとって変わる、ということなのです。間違ったエゴは、それを絶対に見せません。

苦しんで死んでもらわないと、困るから。

・体は、何で出来ているのか?

さて。
長い前置きでしたが、では、体が、食べ物で出来ているわけではない、ということはどういうことなのでしょうか?
では、体は何で出来ているのでしょうか?

体は、”もの” ではありません。
体は、意識とスピリットによって成り立っています。
では、意識とスピリットは何によって成り立っているのでしょう。

意識とスピリットは、気づきによってなりたっています。その気づきの源泉は、大いなる存在、すなわち神、実在(名称はなんでもいいです)によって成り立っています。

ということは、体は、神によって出来ている、ということになります。

ここでのポイントは、体は食べ物で出来ているわけではなく、神によって保たれている、出来ている、ということです。

私たちは、ここを決して忘れてはいけません。

体は食べ”物”で出来ている、と言う人。
体は食べ”物”で出来ている、と信じている人は、”もの” のレベルで生きているがゆえに、こう言うのです。

物質のレベルでしか生きていないために、もの、”物”しか知らないために、それを支えている本質、つまりスピリット(精霊)、神という実在を忘れてしまっているがゆえに、体を物質として理解することしか出来ないのです。

そのサインは、このように言われると、なぜかムカムカする。
反抗的な気分になる、というものです。
間違ったエゴは、これを聞きたくありません。

こうしてみてみれば、いかに忘れてしまった神を思い出す事があなたにとってどれだけ重要なのか?人間性を超えて神性を取り戻す事がいかに重要なのかがわかるのではないでしょうか?

これは、あなたにとっての本当の仕事なのです。
これは、確かにあなたにとっての一大事業です。
認めようが認めまいが。

今回は、何気ないところで、私たちがいかに物質のレベルで生きているのか?
そのことに眠ってしまっているのか?
それがよくわかる例をだしてみました。

以前のテキストでもこのことに触れましたが、違うアングルからみることで、皆さんは、気づかれる事が多いはずです。

・長寿の秘訣は、毎日ドクターペッパーを3本飲むこと

私たちは、このことが日常生活で当たり前にならなければいけません。
それが、ギブアップの会でフォーカスしていることです。
そのために、このようにテキストや各種のスクールを行っていますので、それを忘れずにいていただけたらと思います。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス