先日、私がカフェコーナーで座っていると、ある子供が私の所にやってきて、にこっ」と微笑みかけました。

そのなんと純粋な事か!
なんと穢れのない微笑みであることか!

私の所にはよく、子供がやってきます。
私自身が呼びかけているわけでもなく、磁石のように彼らは私に近づいてきます。

そしていつもいつも、彼らは微笑みかけてくれるのです。
そしていつもいつも、その微笑みは穢れとは無縁なものなのです。

彼らの目は澄み切っていて、光り輝いています。
彼らは自分だと思っている自分を気にかけていないので、微笑みかけて私がどういう態度を取るかに興味がありません。

彼らは、幸せだから微笑むのです。

幸せになりたいから微笑むのではありません。
幸せだから微笑むのです。

そこにある純粋さ、純真さ、穢れのない状態。
私は、彼らといると生きていることの本当の意味をつかまざるを得ません。

彼らが微笑みかけてくれているすぐその横では、ある老人のグループがなにやら話し合っています。

彼ら老人は、肌につやもなければ、杖をついて歩くしかなく、かちこちに固まっていて、輝きもなければ、子供の柔らかさのかけらもそこにはありませんでした。

彼らと目を合わせ、彼らの目を見れば、目はぎとぎとしていたり、妙に血走っていたり、くすんでいたりで、生命の輝きはもはやそこに感じることは出来ません。

そこにあるのは、死を拒絶する生き方、苦悩と非難と罵声に満ちた生き方です。

「あいつが悪い。あいつはひどい。娘がだめだ。息子がだめだ。政府がだめだ。ここが痛い。あそこが痛い。あの医者はどうだ。この医者はどうだ。こんなひどい症状になっている。」

生き続けた結果とは、このような会話を成り立たせるものなのでしょうか?
こういう会話を成り立たせるために、私達は生き続ける必要があるのでしょうか?

はたして、これは批判的な話でしょうか?

私は批判をしているのではなく、事実を見ているだけです。
起こっていることをみているだけです。

小さな子供たちは、あかの他人からでも愛されます。
嬉しくて嬉しくて、はしゃぎまわっていても、愛されます。

けれども、横にいる老人たちは、愛されません。
配慮はしてもらえますが、愛されません。

それは、決定的なほどの差です。
同情はされるかもしれませんが、愛されません。

子供に対する眼差しは、かちこちに固まった老人には向けられません。

実際、知らない老人と話してみましたが、彼らの話の大半は、犠牲者でした。

「あそこが痛い。ここの調子が悪い。大変だ。旦那は死んでしまった。私は、ひとりだ。」

彼らの話は、全てこういうもので構成されています。

そして、当然、自分が話していることに気づけません。

もちろん話していることは知っていますが、何を話しているのかは自分でわかっていないのです。自分が話していることが見えないからです。

老人が小さい子供のように愛されないのは、なぜなのでしょうか?
誰も疑問に思いません。

そんなことは疑問でも何でもなく、誰もかれもが、これから自分が何を得れるか?楽しいことは何なのか?おいしいものは、何なのか?一体、自分は楽しく生きていけるのか?

突き詰めていえば、世界のほとんどすべての人は、このことにしか関心がありません。

だからこそ、切り離したところで、こういう疑問が出ないのです。

自分だと思っている自分に忙しいから、その自分だと思っている自分に関係することになってはじめて、関心を持つのです。

あなたは、どれくらい自分だと思っている自分でしょうか?

私が問いたいのは、ここです。

はっきりいえば、これ以外に、皆さんへの私の関心はありません。

なぜなら、私がわかった限りで言えば、この疑問が扉を開く鍵になるからです。

自分だと思っている自分ということが現れるには、他の何者かが現れなければいけないからです。

それこそが、いにしえから言われている真我であり、神です。

そこに距離があったことを初めて気づくこと。

“まず”最初”に、ここが明らかにされなければいけません。

これが、その国の経済的、支配的といった観点では意味はあるかもしれないが、実際には、何の意味も価値もない人生に終止符を打ち、本当の人生に入っていく鍵になるからです。

老人の目が濁っていたり、やけに乾ききっていたりするのは、彼らがただ無意味な人生を生きてきてしまった代償です。自分の人生を生きもせず、他人の人生を生きてきてしまった代償なのです。自分の人生を生きもせず、「やれ」と指示されたことだけをやってしまった結果なのです。そうしないのは、確かに荒波に向かっていくような人生になりますが、目が濁ったり、乾いたり、死ぬまで犠牲者意識のまま死んでいくことはないのです。

彼らは生きながら死んでいます。
だから、子供の用に愛されないのです。

冷たくて、乾燥していて、硬いからです。
そこに子供のような柔らかさ、温もり、輝きがまったくありません。

人は眠っているけれど、よく知っているのです。
何に近づくべきか、遠ざかるべきかを。

しかし、これは彼らの責任なのでしょうか?
彼らが悪いのでしょうか?

それは違います。彼らは、それでいいのです。
なぜなら、そのようにあることが許されているからです。

彼らが眠っていることを見て、私たちが自分が起きていることに気づけるのです。

それは、非難すべき類のものではありません。
それは、彼らではなく、自分自身がどこに行こうとしているのかをはっきりさせるためのものなのです。

さて。
私が疑問だったのは、この純粋無垢な子供たちは、いつこれらを失ってしまうのか?

ということでした。

純粋さ、目の透明さ、爆発的な輝きといった私達本来の性質をいつ失ってしまうのでしょうか?彼等だって、あと60年も経てば、そこに座っている老人グループと変わらない存在になってしまうのです。彼らにチャンスがなければ。

誰もこれに興味がありません。

テレビで毎日特集を組んでもおかしくないテーマですが、まったく見向きもされません。

なぜなら、数字にならないからです。

人は、興味がありません。
自分が得たいものにしか関心がありません。
だから、テレビは、きちんとそれに応じた内容のものを放送します。

しかし、私は皆さんに今一度、よく見て欲しいと思います。

いつ失ってしまうのか?

老人たちのグループから少し離れたところに、ある若い女性たちのグループもいます。

彼女たちの話の内容も、会社の仲間の悪口、自分自身が置かれた境遇への悲嘆、このようなものだけです。

いいでしょうか。

もうその頃には、すっかり失っているのです。

私は、とてつもなくこのことに興味を持っていました。

ですので、つぶさに町に流れている多くの人々を観察して、この答えを探しました。

いつから、私たちは子供たちの純真無垢さを失うのでしょうか?

それを当たり前などと、決して言ってはいけません。

もし最初にそういう反応が出るのならば、あなたは完全に眠っている、ということです。

現状、あなたに絶対に輝かしいものはやってきません。
いくら平穏な心を求めようが、やってくるのは騒音だけです。

いくらスピリチュアルなことに興味があろうと、何を知っていようとそれは無駄な知識です。

私は、なぜ全ての人が子供のように生きられないのか?
不思議でなりませんでした。

なぜ子供の時には夢を語らせるのに、その後、夢のくだらなさ、現実の厳しさを教えるのか?叩き込むのか?その意味がわかりませんでした。

子供の時には、全てが仲間で、僕らはみんな、かえるもとんぼも同じ仲間で尊い存在なんだと歌わせておいて、なぜ殺虫剤を売っているのか?

なぜ、管理するという目的で殺処分をするのか?
みんな仲間と言うあの歌は、一体何のために歌わせたのか?

「世間は、甘くないのだよ」

というのが一貫した事実であれば、子供の時からそれを教えればいいのに、なぜそうしないのか?なぜ、そんな嘘を、最もひどい嘘をつくのか?

誰も、このことを疑問に思うことが出来ません。
その理由は、もうわかっていますね。

そう、私たちは、かなりやられているのです。
私たちは、ほとんど負けるために生まれてくるのです。

子供のあの純真無垢さのまま生きていくことの何が悪いのか?

そう、全ての鍵はここにあるのです。

皆さんも、その理由を突き止めてください。

私は小さい頃から、ほとんど一貫して子供のままです。
体が何年生きていようが。

私はどういう知識を得ようが、一貫して子供であることを失いません。

だから、小さい子供はそれに感応して、私の所にやってきます。
子供だけではなく、大人も自分が無くしてしまったものを得たいと思い、私に近づいてきます。

けれど、これは渡せるようなものではないのです。

目が覚めれば、目に輝きを取り戻すことを前に書きました。

それはある意味、子供の時の目を取り戻すことなのです。
子供の目を、透明な目を取り戻し、あの無邪気さを取り戻すのです。

そして、それが意味することは、成熟し、かつ同時に無邪気さを取り戻した存在である。
ということです。

ニサルガダッタ・マハラジでさえ、「私は、子供だ。子供のままだ。」と言っていたではありませんか。

それはすべて、このことを言っているのです。

目が覚めれば、そこにいつも微笑んでいる存在、子供のように純真無垢な存在を”見つけます”。

それは何があっても、いつも微笑みをたたえています。そこは真っ暗で何もなくても、そこには微笑みだけがあるのです。

その微笑みをつかみ取れば、あなたはいよいよ取り戻したことになるのです。

もっとも大切なものを。

前にも書きましたが、スクルージを見てみてください。
彼は、一体何を取り戻したのでしょうか?

取り戻した結果、彼はどのような存在になったのかを。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス