さて、クリスマスが過ぎました。

クリスマスの目的は、一体何なのでしょうか?

おそらく、それは聖なるものの日なのではないでしょうか?

しかしながら、私が経験してきた人生を振り返って見ても、また社会、とりわけこの日本と言うグループの社会をみてみると、聖なるものの日ではなく、全く正反対に、より動物になる日になっています。

チキン、ケーキ、シャンパン、ワイン、ピザ…
誰もが食べる事と飲む事に没頭するようです。それがなければ、クリスマスじゃない!
それでは祝えない!とでも主張するかのようです。

これらを口の中にほおばり、踊り、そしてセックスをする。

そして寝るときには、サンタに願い事をするわけです。

”自分の” ”自分だけの” 願いが叶うように。

これらすべては、動物が大好きなことです。

自分、自分、自分、自分…
オレ、オレ、オレ、オレ…

聖なる日であるのに、動物丸出しになる、というのは、非常に的を得ていて、つまりこの社会が何を求めているか、どのレベルで機能しているのか?ということを端的に物語っているわけです。

もちろん、食べる事や飲むこと、性に関心がある限り、私たちは肉体の、間違ったエゴの奴隷のままです。しかしながら、このクリスマスという聖なる日は、私たちである神を愛する事、食べることや飲む事、騒ぐことを忘れて、静かに、このとてつもない一大原理の恩寵に想いをはせる日なのではないでしょうか。

ディケンズが書いた、この『クリスマス・キャロル』は、本当に卑しいほど私たちなのです。

ここに出てくる主人公のスクルージは、何も特別なわけではなく、誰も彼もがスクルージだということです。

面白いのは、この映画を観た人は、まるで他人事のように感じるようなのですが、まさしくそれが自分の写し鏡だとわからない、ということです。

スクルージ、このけちでいじわるな老いぼれじいさんは、何も映画や架空の存在ではなく、まさしく自分そのものなのです。

そう告げると、「私は、こんなにひどくない」と否定する人が続出するでしょう。
確かに、身なりや表面的な言動はここまでひどくないかもしれません。

しかしながら、それはカッコだけで、そこに巣くっているのは、まさしくスクルージなのです。なぜなら、誰もが自分が思う自分にしか興味がないからです。

自分、自分、自分です。

スクルージは、私たちの醜さを象徴した存在だからこそ、あのように描かれるわけです。

クリスマスという聖なる日が、もっとも動物的な性質が強くなる日というのは、ほんとうにこの世界がどこにいるのかを示しています。

ディケンズは、この映画(実際は小説)を通して、私達が何で出来ているのかを非常にうまく描いたわけですが、200年近く経ってもなお、私達の性質は変わっていないのです。
ニサルガダッタ・マハラジか誰かが言ったように、1万年前もそうだったし、1万年後もそうなのです。

この映画を通して、スクルージを見て、自分の人生の責任を取り始める人は、どれだけいるでしょうか?私は、これまでの人生でそういう人に出逢ったことがありません。

「スクルージは、俺だったんだ。今まで、全然気づけなかった。なぜ気づけなかったのか、わからない。いや、そうじゃない。それは、俺が今まで何を大事にしていたかが、それを見えなくさせていたんだ。

俺が、あの薄ぎたないスクルージであれば、もう目をそむけることは出来ない。俺は、自分の人生の責任をこれからとっていかないといけない」

と私に話した人は、今まで一人もいませんでした。

大抵は、映画を観ながら食べていたポップコーンの味の感想や何やらの話で、そういう場所から話した人に、残念ながら会えませんでした。

既に話したように、世界には、これほど多くの優れたデバイスがあるのです。私達が忘れてしまった性質を思い出せるように、ちゃんと設置されているのです。

でも、私達は、それを見ることは出来ません。なぜでしょうか?
そうです。なぜなら、自分がこれまで、そして今大事にしているものによって、見ることを妨げているからです。

パーティをして浮かれ騒ぐのが、悪いことでしょうか?いえ、決して。
しかしながら、私には何の宗教的なバックボーンも関わりもつながりもありませんが、私には、こう言えます。

このクリスマスという聖なる日は、このとてつもない一大原理の恩寵の中に、私達が包まれていること、そして驚くべきことにそれが私達自身であることに、心を捨てて、ただ静かに頭を垂れ、へりくだり、感謝すること。

あらゆるものを支えているこのとてつもない神という一大原理を、静かにして、あらゆるところに見出そうすること。街角に飾られているイルミネーションだけではなく、それを支えてくれている柱、木、そして、その喧噪のなかで、街の中を楽しげに歩き回っている人々の足元で、誰にも気づかれなくても、静かに静かに咲いている一輪の花や、草に想いを馳せること。そこに私を発見すること。

これこそが、私がわかるクリスマスの日です。

そうであれば、どうでしょうか?

何も、一年の特定の一日だけが、聖なるクリスマスの日ではないのではないでしょうか?
365日すべてがクリスマス、聖なるキリストの日にできる、いえ、しなければいけないのではないでしょうか?

私に言えるのは、このような生き方が、ついに実現する人の人生だ、ということです。

よく思い出してください。皆さんが敬愛するマスターは、どのような方でしょうか?

ラマナ・マハルシは、パーティで踊り狂っていたでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジも、そうだったのでしょうか?

もし、あなたがこのようなすさまじいマスターを敬愛し、自分自身がそこに行きたいと思うのなら、彼らが語った言葉だけではなく、彼らの在り方、日常を想像してみてください。そして、彼らが毎日をどう生きていたのか?

あなたと彼らは、今、何が違うのでしょうか?
彼らはとっくに捨て去っているものに、あなたはまだしがみついているものはありますか?

ただ、それだけなのです。
彼らとの違いは、そんなにも簡単なことなのです。

しかしながら、私達はそうであるより、自分自身の動物を、獣を愛しているのです。
だから、実現しないのです。

スクルージ…
それは、私達の人生を支配しているものです。

確かに、この『クリスマス・キャロル』は、素晴らしい贈り物です。
なぜなら、私達本来の姿を教えてくれているからです。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス