☆瞑想中におけるワンネス体験

確かに、瞑想はある点において役に立つので否定するつもりはありませんが、私にとっては、これはかなり不自然な印象を受けるのです。

「ワンネス?というか、そういう体験をしたんですけど…」

と、みな、仰います。

で、よくよく聞いてみると、瞑想中にそういう「全てである」ような体験をして、これは一体、なんなんだ?と。

あるいは、そういう疑問なく、その体験の価値がかけがえのないものだと感じる人も多いようです。

確かに、そうなんだと思います。

けれども、私自身も、瞑想中にそのような「全てである」というような体験をしたことがあるのですが、私にとってそれは、あまり大した意味をもちはしませんでした。

瞑想中に起こる一切について、私はどうしてもそれらが素晴らしいとも思えず、心惹くようなものであるとは思えなかったのです。
(機をみて、瞑想については触れなければいけませんが、私自身、瞑想中に起こった一切について、このサイトであまり触れていないのは、そういう理由です。)

ですので、私のそのような体験と、この人が言っている体験は同じなのか?違うのか?というところで識別する必要があったのです。

もし同じであれば、それは私にとってはあまり大した話ではなく、その立ち位置で話さなければいけませんが、違う場合には、その人の話しにもっと耳を傾けなければいけないからです。

ですが、そのような人との出会いを重ねていくうちに、そのような識別をする必要がないことに気づきました。
もし、「私もそういう体験をしたのですが、あなたの体験と同じなのでしょうか?それとも違うのでしょうか?」と質問したところで、本当の答えをもらえるとはどうしても思えなかったのです。

それよりも、もっと重要な事はそのような人と話しているうちに、ある点について見えるようになったからです。

それは、

「繋がっていない」

という感覚でした。

この感覚がある限り、もろてを挙げて、「やあ!!!それは、本当に素晴らしい体験ですね!!ありがとうございます!!!」とは、言えませんでした。

ここで、私は何度、自分自身に注意を傾けたことでしょう。

つまり、なぜその人の体験を賞賛できないのか?
それは、私の中に巣くっているあいつが認めようとしないせいではないか?

まだ嫉妬やライバル心が残っていて、それがそうさせないのではないか?

と何度も何度もチェックしなければなりませんでした。

しかしながら、それはやはりそうではありませんでした。

さて。
では、この繋がっていない、ということが一体、何を意味するのか?それを見てみましょう。

「ワンネスを体験しました」

ということを聞く時、私は、いつもそこに通らない、繋がらない感覚を感じてきました。

これが何を意味しているのか?といえば、それは、バラバラだ、ということです。

「ワンネス、体験しちゃったんだよね」

という時、それは個人的すぎる体験で、個人の域を出ていないのです。

ですので、拡がっていかず、繋がりを回復しないのです。

体験というのは、確かに個人にしか通用しないものです。
よって、体験を語る事で、バラバラ感を感じてしまっても、なんらおかしくはありません。

しかしながら、そうではない体験、というのは、確かにあるのです。
個人を超えている体験、だからこそ、私たちはそこに私たち自身の故郷を感じる事ができるのです。

(つづく…)


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