・気づきを、手に入れることはできない
これまで数え切れないくらいの方と話してきた結果、あることに気づきました。それは、気づきそのものは、人間、つまりエゴの手に負えるものではない、ということです。
このことについては、既に何度も書いています。
何度も言う必要があるぐらい、このこともまた、非常に重要な理解だといえます。
気づきと言うのは、人が、エゴが何とかして手に入れられるものではありません。
経験した限りでは、気づきに触れられるか否かは、完全にその方の脚本次第なのです。
・修行や努力について
よく修行や努力、探求をして…。などという方もいますが、そういう方と話すと、つい私は笑ってしまうのです。
なぜなら、残念ながら、それは完全に的外れだからです。
修行をすれば、それがいつどうやって来るのか、100%わかるのであれば、それは、やるべきものです。
いつ、どうやって、というのは、完全に条件です。
時間と空間を示しています。
けれども、気づきは、時間も空間も越えているのです。
それでどうして、修行が有効だと言えるのでしょうか?
そして、修行が有効であれば、今ごろ、仏陀やイエス・キリストは、それほど
語られもせず、あがめられもしていないでしょう。
仏陀のような存在は、たくさんたくさん、生み出せるのですから。
けれども、仏教やキリスト教にどれくらいの歴史があるのか知りませんが、ともかく、いまだに仏陀やキリストの像をあがめているのです。
それは、あらゆる修行それ自体には、実は何の効果もないことを示しています。
・修行がもたらす劣等感という毒
また、修行でそうなれないのは、自分が至らないからだ、という結論を出そうとしますが、そうすると、おなじみの、「私は、だめなやつだ」という烙印を押すことになり、間違ったエゴは大いに喜びます。罪悪感や劣等感、というおなじみのやつです。
罪悪感や劣等感は、分離という幻想を強化します。
罪悪感や劣等感は、憎しみや嫉妬に姿を変えて、この幻想のドラマを長引かせるのです。
こういうわけで、あらゆる修行や苦行といった意図された努力というものは、
慰めにはなるかもしれませんが、本当に望む結果は、大抵はもたらしません。
・なにしろ、起こるべきことは起こる
事実、私は、ほとんど何の修行もせずに、こうなってしまいました。まさか、自分の人生にこんなことが起こるとは、まったく予想もしていなかったのです。
何の修行もせず、目の曇りが落ち、その後、何年かした後、汝、すでにそれなり。
ということに、突然気づいたのです。
これは、いったい、どう説明すればいいのでしょうか?
もちろん、道中において、修行としかいえないような試練ばかりが起こりました。
でも、私は、まさか自分が修行をしているだなんて、思いもしませんでした。
ただ、起こってくる悲惨な出来事を一つ一つ受け止めて、乗り越えてきただけです。
ですので、私はみなさんに、そんな主体的な修行や努力をしているのであれば、
やめてしまった方がいい、というわけです。もっと、自分が好きなことをしたほうがぜんぜんいいのです。
脚本に書いてあれば、どっちみち、起こるのですから。
それでもまだ、修行をしたい、というのであれば、ぜんぜん構いません。
結果に期待さえしなければ、それはまったく問題ではありません。
そして、結果に期待する意味がないことがわかっていながら、期待してしまうこともまた、その方の脚本です。
それはその人の脚本にそう書かれているので、仕方がないものなのです。
こういうわけで、行き着く結論は、ギブアップするしかない。
ということになります。
・ニサルガダッタ・マハラジ曰く
あなたがどれほどがんばろうが、常にそれはサークルの中だけのことです。あなたがつかもうとしているのは、サークルの外にあるもので、
であれば、それをどうやってつかむというのでしょうか?
私がわかったことは、気づきは、超えているのです。
気づきは、意識できないのです。
ニサルガダッタ・マハラジは、これをこういう風に言っています。
「意識していることを気づけるが、気づきを意識することはできない」
これは、読むだけ、聞くだけでは、単なる概念です。
学問です。そういう風にとらえてしまえば、これらは全て外側のものです。
私が言えるのは、これは決して概念ではない、ということです。
概念ではなく、事実生きるものとして、それを直接知ることができるものです。
そして、それは十全に語ることのできないもので、直接あなたが知らなければ
わからないものなのです。
ですので、まったく学問ではありません。
これを分析しようとすれば、必ず失敗します。
分析や解析、推理というものは、学問には有効ですが、
事実には無効です。事実には、時間が適用されないからです。
超えているものを、つかむことはできません。
気づきに触れられるかどうか、世界を超えていけるかどうかは、完全に脚本によります。
気づきは、超えていて、それが実はあなたの本性です。
自分が思っている自分、という間違ったエゴである幻を、どういうわけか間違ったエゴが気づきの輝きに触れ、照らされることで、自分がまるで存在していなかったことを観て、同時に、本性に戻ります。
この一連の消滅のプロセスは、人が、間違ったエゴがその企てにより、進め、完結できるものでは、まったくありません。
経験した限りで言えば、まったくそれは、不可能です。
私は、そんなことを自ら企てたことすら覚えがありません。
ニサルガダッタが言っていたことは、本当でした。
ほんとうに、本当だったのです。
さて。
これを聞いて、あなたができることは何でしょうか?
できるならば、私が言っていることを覚えておいてください。
それだけで、十分です。
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