その方は、こんな風な言葉を私にくださいました。
なぜ人は、それ以外には何の価値も無いと知っていながら、私の物と勘違いしている、それらの物を、手放す事が出来無いのでしようか。
なぜ人は、私と言う実在しない物に、振り回されなければならないのでしょうか。
とても、不思議に思います。
なぜ人は、私と言う実在しない物に、振り回されなければならないのでしょうか。
とても、不思議に思います。
この聖なる疑問は、ここに来るほとんどの人が持つものだと思います。
では、なぜ”聖なる”なのでしょうか?
それは、人間には、このような疑問が出てこないからです。
人間は、このような疑問を自ら持つことは出来ません。
私が観て来た限りで言えば、持つことは出来ないのです。
このような疑問が出てくるためには、人間として多くのものを体験しつくしているから出てくるものです。
つまり、それは余地の問題なのです。
聖なるものが現れる余地が出来ている、という証拠なのです。
もちろん、このような疑問をする事は出来ます。
しかし、それは反応です。
人間としての反応の結果、このような疑問をすることはできます。
誰かが、そう言ったから。
誰かがそういったので、私はそれをこれこれ、このように”解釈”する。
これが、人間です。
反応です。理性です。
それは、本当の出口ではありません。
私がなぜこのメッセージに打たれたかと言えば、そこには大切なあらゆるものが詰まっていることがわかったからです。
誰かが言っている言葉を借りて言っているのではなく、人生を通して、自らの真摯な経験を通しているからです。
そこには、謙虚さや、誠実さ、素直さ、忍耐強さ、そして力強さまで感じ取れます。
私が分かる限り、真我を実現するには、このような基本的な要素を非常に高い段階でマスターしている必要があるのです。
どれだけ瞑想したかとか、経文を唱えたかとか、山にこもったか、なんていうのは関係ありません。
もちろん、それらのものをすれば、人より”スーパー”にはなるでしょうが、真我はスーパーなものではないのです。神は、スーパーマンではありません。
スーパーを求めるのは、いつだってエゴなのです。
ええ、大半の人には、これは耳が痛い話ですね。
そういう行為より、在り方の究極性が求められる、ということを忘れないように。
それが鍵の一つです。
さて、
このような素晴らしいメッセージをいただき、ありがとうございました。
そして、その方の道に対するコミット、深い献身性に心からお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございます。