さて、今回は、頂いたお便りを共有したいと思います。

頂いたお便りの中で、注目すべきところを以下に抜粋します。


前より気づくことが頻繁に起こっています。気づくというのは自分の傲慢さに気づくということです。それは度々起こるようになりました。
☆大いなる成果 Part2 ~直接知ることの恩恵~
(全く一緒ではありませんが、このような感じ)

気づいた瞬間は、彼らが、私がうぬぼれていることに気づくために、偉大な役者となってくれているように見えますね。

そして理解してくると、ちーさんの記事のどこかに書いてあったと思いますが、「勉強になります〜」みたいな軽々しい言葉が使えなくなります。



おぉー。
このお便りを頂いたとき、ここで紹介させていただいたお頼りと同じく、まさしく、おぉー、でした。

そこで、これから、何が ”おぉー” なのかをみていこうと思います。

☆個人から観照者へ

まず最初のポイントは、

>気づくことが頻繁に起こっています。
というところです。

そうです。気づきは起こるのです。
起こすものではありません。

まったく自然に書いていますが、静かでそれでいて理解にあふれています。

起こっている、ということを見ている時、現象から離れている。
ということを意味しています。
個人として巻きこまれていない、ということなのです。

まるで、自分を他人のように観察している、ということがおわかりでしょうか?
だからこそ、このように書けるのです。
ここには、驚くほど個人的な臭いを感じる事が出来ません。

これは、驚くべき事です。

そして、こういう状態だからこそ、

>気づくというのは自分の傲慢さに気づくということです。
というように、自分の傲慢さやうぬぼれにフォーカスできるようになるのです。

私たちは、人生経験の中で、必ず、他人から「うぬぼれるな!」というようなことを指摘されたり、怒られたりすることになります。

ですが、この方が言っている、「うぬぼれ」はよく怒られるような「うぬぼれ」とは、似て非なるもの なのです。

一見、似ていますが、質が全然違うのです。

これは、どういうことかと言えば、「うぬぼれるな」と言われるとき、そう指摘している人もうぬぼれていて、怒られている人も、うぬぼれていることにうぬぼれながら反省しているのです。

うぬぼれから離れていなく、そのままになっていながら、その中でもがき苦しんでいるのが、前者なのです。

しかしながら、後者は、つまりこの方が気づいた事は、うぬぼれを、傲慢さを観ているのです。ここが決定的に違うのです。
前者は、個人のものであり、後者は、観照者のためのものです。

ということは、つまり、彼女は、知らない間にその領域に入っていた、ということを意味しています。

また、彼女は、非常に重要なことを指摘しています。

それは、

>気づいた瞬間は、彼らが、私がうぬぼれていることに気づくために、偉大な役者となってくれているように見えますね。
まず最初に、彼女は、うぬぼれていることが ”見える” 時、彼らが偉大な役者となってくれている ことに気づいたのです!!

これは、あらゆる聖なる書物の中で言われている事です。
もちろん、彼女もそれらを読んだ事があるでしょう。

しかしながら、重要な事は、彼女がコピペして言っているわけではない、ということなのです。
会ったことも話したこともないような人が言った事を、何の検証もせずに盲目的に受け入れて、とりあえず、そういう偉人が言っていたから、言っておこう的な。

そういうレベルを微塵も感じさせません。

彼女は、自分の経験から、自分の言葉で語っています。
淡々と。
だからこそ、ここに叡智を感じる事が出来るのです。

こういう言葉は、非常に非常に非常に強力です。
神から来ていて、だからこそ、揺るぎのない力に満ちています。

また、なぜ神から来ているかといえば、そこに全体性があるからです。

彼女は、彼らを役者としてみています。
実在している人間とは見ていません。
バラバラな個人として見ていません。
バラバラを見なければ、そこには全体しかありません。

役者を裁く事もなければ、判断する事は絶対にありません。
なぜって、役をうけおっているだけだから。

月9のドラマに出てくる犯人を、その後のニュース番組で取り上げる事はないのと一緒です。なぜって、その犯人は、他のドラマにも出ていて忙しい、単なる俳優だからです。実在はしていません。

だからこそ、ここに愛があります。
彼らを恐れて非難するのではなく、感謝すべき存在として見ているのです。
ここに恐れはありません。
だから、繋がりが回復しているのです。
すべて自分が描き出した映画を観ているだけで、それらは自分自身が割りあてただけであること、そしてそれらとそこにいる自分は、本当の自分ではない事が見えるからこそ、このように言えるのです。

(つづく…)