しめ縄は、年末からお正月にかけて飾る装飾品です。
誰もが目にしたことのあるものでしょう。
しめ縄の歴史をここでいちいち見ることはしませんが、簡単に言えば、天照やスサノオの神話的なところからスタートされていて、言ってみれば、結界を張るような意味合いで使われているようです。
ただ、ここで私たちがよく見ておきたいことの一つは、しめ縄のその構造です。
もうとっくに知っている方もいるでしょうが、この形、気にならないでしょうか?
しめ縄を見ると、それは ”撚ってある” のです。
撚る。
この形、何かに似ていないでしょうか?
そうですね、DNAです。
なぜこうも、キーとなるものは、いつもいつも二重螺旋なのでしょうか?
この二重らせんを見ると、いつも私たちに、「ここからーつまり、この幻想からー簡単には、出れないんだぞ。ここは、それほどきつく巻きあがっている場所なんだ」と言っている気がしてなりません。
奇しくも、このお正月の時期に、人々は、しめ縄を飾ることで、内と外を分けます。神聖なものと穢れたものを分けます。神と人を分けます。
このように年の初めに、社会全体で二元性を高らかに宣言して始めるとするなら、どうしてこの世界に出口があると言えるのでしょうか?
私たちは、きつくそこに閉じ込められてしまうのです。
分離という幻想にどっぷりとつからないといけないのです。
ですから、目覚め始める存在は、無意識にでもそのような風習に抵抗するのです。なぜなら、無意識にでもそういうことに加担するのなら、出口が見えなくなってしまうからです。
それは、面倒くさいとかそういう理由ではないのです。
もうこれ以上、催眠にかかりたくない、ということなのです。
社会は、このレベルからの視点は決して持てません。
ですので、タブーをおかす存在、生意気な存在、厄介な存在、子供じみた存在など、非常に幼い捉え方でしか扱えません。
もしあなたが、昔も今も、このような風習が嫌でたまらないのなら、それはつまりそういうことなのです。
ただ、このしめ縄、つまり二重らせんという構造は、幻想という現実を創り上げるエネルギーの中核をなすものでしょうから、興味を持たれる方は、しめ縄をきっかけとしてインスピレーションを受け取るかもしれません。
しめ縄、二重らせん、DNA、双頭の蛇、クンダリーニ…。
これらは、同じものであり、キーワードです。
展開されている社会が、このことに気づくことはありません。
彼らは、やることになっているから、やっているだけです。
ただ、反応して生きているだけです。
しかしながら、もしこういうことに気づきはじめれば、間違いなく、この社会、この世界は、このような原始的で幼い進歩レベルから卒業できることになります。またしても、それらをテクノロジーの面だけで捉えなければ、ですが。
なぜお正月、年の初めにこのような二重らせんの構造のものを飾るのか?
それは、それが現実を創り出す中核的な鍵を握っているのであるから、つまり、いかに新しい年の始まりに、自分自身の理想を描き、それが現実化するようにこのしめ縄を創り、掲げることによって、それが当然そうなるようにし、自分自身が何者なのかを思い出すために飾るのです。
ですので、本質的には非常に重要な、リマインダーとしての機能をきちんと果たしているものなのです。
たとえば、このことを家族に話せば、
「なるほどねー。じゃあ、私達がやっていることは、”間違いじゃない”ってことね。しめ縄を飾れば、私たちは、”もっと幸せになれる”ってことね。来年は、素敵なしめ縄を沢山、買わなきゃ」
となります。必ず、なります。
彼らは、非常に薄っぺらく受け入れます。
彼らにとって、”メリットがある” がゆえに、薄っぺらく、表面だけ受け入れるのです。
ただ、それだけです。
私が言わんとしている本質的なことには、まるで気がつきません。
彼らは、ただ”自分達が幸せになれるか、否か” だけなのです。
それしか、関心がありません。
しかしながら、あなたはおそらく違うでしょう。
自分が幸せになるために、自分の所に福が来てほしいだけのために、しめ縄を飾るでしょうか?
「何も、欲しくない」
福も欲しくないし、幸せもいらない。
苦痛も苦しみも、欲しくはない。
それこそが、私達が見出さなければいけない場所です。
そこは、しめ縄すら超えている場所です。
ですので、こうしてみれば、あなたがいかなる場所にいるのか、それが非常によくわかると思います。
【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス