今日は、1月1日ということで、元旦と呼ばれている日です。

現在、この日本と呼ばれる社会では、年末年始という時期に入っていて、ほとんどすべての活動が休止状態になります。

現状はよくわからないのですが、おそらくこのお正月休みの中では、多くの人が一家団欒をし、今年一年、福が来るように、神社やお寺などに初詣をしたりするのではないでしょうか。

私自身、育った環境がまさしくこのようなものの典型でした。

さて、多くの人はこれで満足です。

どんなに混んでいようが、朝から有名な神社やお寺に出かけて、長蛇の列に並んで順番が来たら、お賽銭を投げ入れて、ぱんぱんと手を叩いて、願い事をして家路につく。

しかしながら、目覚め始めてしまうと、このような習慣、世の習わしごとに対応できなくなってきます。

なぜなら、目覚め始めることで、催眠効果が薄れてきてしまうからです。

「なんでこんなアホらしいことをやっているのか?」

それまで疑問にも何にも思わなかった習慣に突如、拒否反応が出てくるのですね。

もちろん、大抵は”大人”ですので、したくもないことでも演技で足並みを揃えることは出来ます。しかしながら、すでにしたくもないことですので、演技すること自体に強烈なストレスが生み出されます。足並みを揃え、他の人と形だけ仲良くなるようにすることに膨大なエネルギーを使ってしまうのです。

そして、一日が終わり、夜になれば、本当にうんざりするのです。

「なんで、何のために、こんなことをやっているのか?」

そして、このような演技をこれから死ぬまで、ずっと続けていかなくてはならないと思うと、本当に絶望に打ちのめされてしまうのです。

そうではないでしょうか?

まず、ここで指摘しておくことの一つは、そのような気分になっているのは、
大抵、あなたしかいない、ということです。

あなたの周囲にいる人は、そのことに驚くほど気づいていません。
眠っているからです。催眠にかかっているからです。

この世界はその催眠で出来ているのですから、そのような習わしごとに参加できないあなたのことなど、フォローできるわけがないのです。

あなたがつぶやいたって、催眠のフォローが返ってくるだけです。
ですから、そんなものはしないように。(なんちゃって)

ここで言いたいことは、このようなお正月の習慣に対して、疑問や拒否感という感覚に支配されてくる、ということです。
その理由は、そのような催眠効果が薄れてきてしまったからです。

ですから、逆に、いまだに、お正月バンザイ、クリスマスバンザイ、ハロウィンバンザイ、といったように、そのような知りもしない誰かが決めたルールに対して、いまだ何の拒否感も疑問も感じないようでしたら、まだまだ催眠が強くかかっている、目覚めの呼び出しがかかっていない、ということです。

いいでしょうか。

このお正月という時期に、人がどう動いているのかをよく観てみてください。

しめ縄を買ったり、飾ったり、特定の食べ物を食べたり、あれやこれやの行為をしたり、初詣に出かけたり、帰省したり…。

彼らの行動の根拠は、

「やることになっているから、やる。周りの人がやっているから、やる。やれといわれたから、やる」
ただ、それだけなのです。
良いとか悪いとか、徳があるとかないとか、そういうことではないのです。
ただ、眠っているだけなのです。

もし嘘だと思うのなら、彼らに尋ねてみるといいです。

「なんで、そんなことやってんの?」と。

私は幼い頃から、何度もこのことを両親に尋ねたことがあります。

その度に目を丸くしながら、判で押したように

「やることになっているから、やっているんだ」

という回答をくれました。

私にはまるで信じられない、まったく受け入れられない答えでしたが、それでも、彼らはそうは言っても、

「ばかばかしいことやっているけどな。はーーあ、くだらないや」

と感じているんだと思っていたのです。

しかし、蓋を開けてみて、私がわかったことは、彼らのほとんどは、そんなこと、全く思っていないのです。ですので、そういう風習、習わしごとについて、疑問をもったり、やらなかったりすると、

「あいつは、だめなやつだ。日本人じゃない。本当にだめなやつだ。気でも狂っているんじゃないのか?」

という結論になってしまうのです。

集合的なエゴにしてみれば、催眠効果を失わせるような存在は、危険極まりない存在です。ですので、少なくとも本人の催眠だけは解かないようにディフェンシブモードをとるのです。

さて。
この話のポイントは、そのような眠っている大多数の存在が良いとか悪いとかいう話ではありません。

ポイントは、このようなものに対して、あなたはどう感じているのですか?
ということなのです。その答えは、先ほど、書いた通りです。

くどいようですが、お正月サイコーであっても全く構わないのです。
これは、お正月を無くそうとしたり、批判したりすることがポイントではないのです。

ただ、目覚めが始まった存在は、どのようなプロセスをどのような感じ方を抱えながら生きていくのか?ということなのです。

そして、まさしく、あなたはそのようなものに対して、うんざり感やどうしようもない感じ、もうそこに参加できない、という感覚に支配されているのなら、やはりコンパスの先は、当然指し示しているところを指し示しているわけで、かつ、あなたの周囲の人は、あなたがどう感じていようと全く無関心で、気づくことはありえない、ということなのです。

たぶん、この文章をここまで何の抵抗もなく読めてしまうようなあなたは、

「まさしく、そうなんだよな」

という感覚でしょう。

さらに悲しい話をしてしまえば、もう催眠にかかっていた、あの頃の感覚が蘇ることは、まずない。ということです。残念ながら。

ただいつの日か、そのようなものに影響を受けることがなくなります。

お正月の行事をバカバカしく感じたりすることもなければ、積極的に参加することもなくなります。あなたにとっては、問題がなくなるのです。悲しさも、むなしさも、怒りも、抵抗も歓びも、感動も感激もなくなります。

ただ、理解だけがあるでしょう。
もっとも近いものは、慈悲、コンパッションという感覚です。

それが、あなたが目覚めた証です。

【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス