「~を経験して、私は非常に考えさせられました」

時々、こういう事をいう方がいらっしゃいますよね。

先日、何かのタイミングでこの言葉を耳にしたのですが、耳にしたと同時に、そこに、あのおきまりの空っぽさが宿っている事がわかりました。

私が経験してきた限りで言えば、こういうことを言う方は、その後も、大抵何も変わらないことがほとんどです。本当の、その人にとっての革新的な変化は生まれません。

なぜなら、それは、「考えている」だけだからです。

何かが起こって、「ああ、これはああなんだ、これはこうなんだ」と考えているだけなのです。

考え、というのは反応です。
何かが起こらなければ、それは起こりません。

そして起こった後、自分自身のデータベース(過去という記録)にアクセスして、ただそれを今後、それを正しいとか間違っていると認識する、というレベルでしか処理できないのです。

つまり、考えるというのは、過去が主人で、それに仕えて生きている、ということを意味するのですから、考えさせられようがどう思おうが、結局当人の人生の深いところでの変化は起こらないのです。過去を生きているだけなのですから。

そして過去とは もうない ことを意味するのですから、つまり誰もが亡霊のようなものなのです。私たちは、ないところにすがって生きている、というわけです。
道理で生きづらいわけなのです。笑えますね。

最も大切な事は、何かを経験した時、本物を体験したのなら、

考える事は起こらなく、
逆に「何も言えない」「ただただ、圧倒されるだけ」「そこに奇妙な静けさを感じる」

時にこそ、人生に革新的な変化が生まれるときなのです。

「いやー、非常に考えさせられました。ワタシ」

などというときは、基本的に間違ったエゴ丸出しなのです。
そこには、いつもあのうさん臭さが漂っているのです。

ですので、何かの本を読んで、たとえばニサルガダッタ・マハラジでもラマナ・マハルシでも何でも構いませんが、

「この人の言葉を読んで、私は考えさせられた」

という時、その人にとっての先は、もう見えています。
残念ではありませんが、その人には輝かしいものはやってきません。

こういう言葉を使うとき(それが何気なくでも何でも)、それはもう限界を見せているのですから。

そして頭を先に働かせている限り、絶対にそれはやってこないのです。

地球の環境について何かの番組を見たときも同じです。

「いやー、いい番組だった。考えさせられたよ」

という時は、絶対に地球に良い変化は起こりませんw

考えることが気づきにとって変わらない限り、何も変わらないでしょう。

この世界は、それほどまでに「考える事に汚染されている」、というのが私の見えていることです。

そして、私たちにとって大事な事は、だからと言って、世界を救うことが先に来るのではなくて、そうではなく、自分自身がどれだけ考えに汚染されているかを見て、受け入れて、決心することです。そうすれば、全ては後に続いてくるからです。わかりますか?

つまり、そういうことなのです。

【レベル】:クリアクラス~ユニティクラス